【批評】お見合い日記が面白すぎて【うひょー】

2009-06-23を読んで

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 既読の意味を込めてスターを付けることのよくあるわたくしめは、あんた読んだっていうけどタイトルだけと違う? と窓よりおいでなすった風に吹かれてベッドの下からこんにちはをしている埃に囁かれたような気がして謂われなき後ろめたさを覚え、これを払拭せんとばかり気に入った文章を反転させ中身をきちんと読んだ証たるスターを捧げるのであるが、困ったことにフミオ氏(Delete_All)のブログに関してはその手が使えないのだ。そんなことをしようものならすべての文章が青に反転し、かのブログはスターで埋まってしまう。それゆえに普段はやむにやまれぬ思いでスターを一個か二個捧げ、足下に擦り寄ってくる埃をゴミ箱へ移してやり終いにするのだが、今回ばかりはそうもいかなかった。誇張抜きで全文を反転させねばならない。それほどに各センテンスが幻惑の光を放っていた。
 さて困った、私の目の前をふわふわと蝶のように舞うこの言葉すべてにスターをつけてしまおうか、でもそれは荒らしも同然ではないか。パンを小さくちぎって食するお嬢様のように文章を区切ってはぽちっ、ぽちっとスターを追加できればどれほどいいか。
 それにしても回を重ねるごとにノッピー☆がパワーアップしていくのはなぜだろう。氏の好意の芽生えなのか、敵を見定める観察眼ゆえか。《スザンヌ似の25歳推定Dカップ》、これはのっぴー☆きならないステータスなのだがおっぱい星人である氏がなぜ彼女を拒むのか、それともおっぱい星人は誤りでありおっぱい聖人であるのか、そうだとすれば尻派の私には理解の及ばない悟りを開いていても頷くしかない。


 誰かが氏の表現をマジックリアリズムみたいと評していた気がするが当時その名称を知らなかった私はそりゃなんじゃらホイと思って調べてみてクンデラが使ってる手法が代表例と知って、幸い『存在の耐えられない軽さ』は読んだことがあったので、ああ要するにマジックマッシュルームを囓ってハイになったブレインで奏でるロケンロールふうの文章か、にゃるほど氏の表現にはそういうところがあると思った次第で。でもマジックマッシュルームは、あ間違えたマジックリアリズムは、これ小説ですからねこれフィクションですからねでも私文章うまいからみんなのめり込めるよねってエクリチュールへの強烈な自負心というかリアリズム出すっきゃこれしかないよねってスタンスであってそれって氏にはそぐわないかなって思うわけで。だって氏はこうじゃなきゃ伝わらないからって悲壮感で言葉を選ぶのでなくてただただロックなだけで、無意識の海から流れ着いた言葉あるいは自動筆記する氏のキーボードを叩く指先を操っている天使ちゃんの運んできてくれた言葉というべきものであるからしシュールレアリスムの方がうんと近いじゃないかと思うのだけど、不思議の国で我らがポルノヒロインアリスがハンプティダンプティにスカートまくしあげて下着を見せるシーンも(いやそんなシーンありませんけど)ディシプリンへの反乱であったことを思うと、じゃあ氏には反乱を起こしたくなるほどの厳しいディシプリンを積み重ねていた時期があるのかといえばさてどうだろうねボクちゃんには計り知れないことだ、でも憶測するにそんなものやっぱりないんじゃないかな。だって、そうでしょう、夏目漱石読んで金之助あんちゃんの文章素晴らしと思ったら氏のブログのような文体にはならないでしょ、それに氏は木を彫って像を作れるし暇だからという理由で絵まで描けちゃう芸術肌のビール愛好家で、なにをいいたいかといえば御本を読むより立派な経験をたくさんしているわけで、いい作家になろうと思ったら家にこもって読書ばかりしていても無駄無駄無駄ァッという典型例じゃないかと思うわけで。それじゃ氏は何を読むのかな村上春樹かな、氏が春樹関係の記事にブクマを付けていたような気がこの木なんの木の映像および音楽を伴って記憶の端っこで踊ってる、そうすると春樹読んだことのない私からはこれといったことはいえないわけで、じゃあどうしようもありませんね批評はお開き。
 とっぴんぱらりのぷう。


 と、勢いで終わってしまったがもう少し続く。
 リアリズムへのせっぱ詰まった希求だとかディシプリンへの反乱だとかが氏を読み解くには的外れだというのならどのような区分けが必要だろう。や、全然必要なんかではないのだが。ただ、マジックリアリズムシュールレアリスムと似て非なる点はまさに日常の非日常化にある。日常の非日常化すなわち異化なんて小説の基本じゃないかという指摘も考えられるが、ちょっと待って、氏の書くシノは恐らく実在の人物で氏の書くブログはエッセイであって小説(=フィクション)じゃないのだ、多分。それにも関わらず「恐らく」だとか「多分」だとか断らなければならないところが奇妙なのだ。*1

部屋に戻りもう一本缶ビールを空けジーパンをはいて希崎ジェシカのDVDを止めてから僕はデニーズへ向かってガツガツと肩で風を切り切り、うさだヒカルの格好をしたシノさんが座るボックス席を見つけて横に座り、正面に座る巨大な虎の顔がプリントされたババシャツを着たおばちゃんを睨んでとりあえず中ジョッキ。

 読点の少なさに反して意味を取り損なうことのない文章でもってテンポ良く語るその中には、漢字、ひらがな、カタカナはもちろんのことアルファベットもあれば記号(ノッピー☆)もあり、擬音やアニメキャラの名前まで内包されている破天荒ぶりで最後は体言止め。多様なものがビールの泡のように溶け込んでいてしゅわしゅわと音を立てているが、単にはちゃめちゃというのでもない。フローベールが街中へ出て行って自分の書いた一節をそらんじ耳によって真に美しい言葉を求めたように、読ませる文章とは単純に音がいいのであって、それは氏のブログにもあてはまる。中空にボタンでもあるかのように「中ジョッキ追加」がたびたびプッシュされ心情とリズムをきめていく。
 結びも冒頭を反復して素敵な余韻を残していく。一度批評を締めくくろうとして止めてダラダラと書き続け引き際を見失っている私とはずいぶんな違いである。


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参考資料

*1:「小説がフィクションであるがゆえ技術を駆使しリアリティを求めた結果と、日常=現実にあたかもフィクションであるかのようなフィルターを通した結果、その双方が似たような文体に行き着いているところが興味深い。が、これはまた別の話か。」というような内容を書き忘れていたので追記しておく。2009/06/28