もっと軽やかに

テキスト

 雲一つない澄み切った青空の下に柔らかな稜線が連なっている。それら遠目に見える山々は緑の絨毯を敷き詰めたようであり、さらりと撫でればやはり絨毯の触感が掌にあるだろうと思わせる。私の眼前には主に白と橙の花を付けた植物が茂り、花びらの下に密集した緑の部分をも美的に侍らせて平原を覆っている。錆び付き色あせた戦車はそこにあった。緑の錆を纏った貫禄あるそれはうなだれるように砲台をやや下方へ向けて、あたかも目を閉じて居眠りをしている老人のようだった。

呟き

 今回はテキストを最初に、画像を最後に用意した。テキストで抱いたイメージとどれほどの差があるか調べる目的で。(誰も評価してくれないから調査結果はでませんけどね!)

 夏目漱石は自然を描写することに関して次のようにいってらっしゃる。(青空文庫から引用)

私の考では自然を寫す――即ち敍事といふものは、なにもそんなに精細に緻細に寫す必要はあるまいとおもふ。寫せたところでそれが必ずしも價値のあるものではあるまい。例へばこの六疊の間でも、机があつて本があつて、何處に主人が居つて、何處に煙草盆があつて、その煙草盆はどうして、煙草は何でといふやうな事をいくら寫しても、讀者が讀むのに讀み苦しいばかりで何の價値もあるまいとおもふ。その六疊の特色を現はしさへすれば足りるとおもふ。ランプが薄暗かつたとか、亂雜になつて居つたとか言ふ事を、讀んでいかにも心に浮べ得られるやうに書けば足りる。

 ヌーヴォー・ロマンのようなスタンスがあるわけでもないのなら描写が難解である必要性はなく、対象が自然と連想できれば読者にいらぬ負担を与えるよりはずっとよい。《細精でも面白くなければ何にもならんとおもふ》のだそうな。
 肩の力が抜けて筆の運びは軽くなった。