マーマレードではないけれど、オタマジャクシが思い出させること

はじめに「前置きだけでお腹いっぱいになる人は前置きだけでいいよ。あるいは前置きをとばしてもいいよ。」

 J-POPに敏感になり始めた中学生、J-POPをもっとも聞いていた高校生の頃は、プロモーションビデオが嫌いだった。プロモーションが促進を意味する単語であることをしっていた私は音楽を映像によって販売促進することの邪道っぷりに唾棄せずにはいられなかった。青臭い年齢がもたらすなんということのない批判精神にすぎなかった。人はその年代が過ぎると過去に持っていた批判が拘るに値しないちっぽけなものであると気付く。しかしその変化はほとんど惰性的だ。完成の革新に自覚的になることは稀なので驚きを持つこともできず、更に長い年月を重ねた後に過去の自分の青さに首をかしげる程度に終わる。やや大それたことをいうなら、感性ありきの人間はこの変化に無自覚だが、理論が先行している人間は理論の土台である感性が蠢くことに気付きやすく、驚きやすいのだ。*1私は幸いにして土台が蠢く様に直面し、当惑した経験を持っている。
 大学生になっていた私は知人がプロモの話をしていたので、いつの間にかプロモーションビデオに対する嫌悪感が失われていたことに気付く。「そうだ、僕はかつてプロモを嫌っていたっけ。今なんとも思わないのは、理屈がおかしかったからじゃあない、音楽界のことなんて興味がないからだ、理屈は正しかったはずだ、今でも正しいはず。音楽にプロモは邪道!」 ところがどっこい。ドラマ化される以前から妹によって勧められた音楽漫画『のだめ カンタービレ』を読んでいた私は音楽という語から曲という語を連想した。音楽は曲と歌に分けられる。そしてクラシック音楽は曲のみで歌詞がない。起源を辿れば音楽とは曲のみを指す時代があったわけで、歌が音楽であることは自明ではない。だが私が歌は音楽ではないと思ったことはないときている。「歌も本来は音楽として邪道なんだろうか? いや待て待て、さすがに歌と映像を一緒にするのはいかがなものか。しかし歌が音楽の一因として異質だった経緯を持つとすれば映像もいずれ音楽として認知される時代がくるのでは? そうとも、歌とは歌詞だ、歌詞とは詩だ、詩は文学であって音楽ではないぞ。なんてこった!」 やれやれ、といわざるをえない。大学生の私はまだ青い時代に生きていたらしい。それとも言葉の多様な幅が論理の様々な落とし穴を持っていると知らなかった無知ゆえか。なんにしろ青い大学生は再びのだめを思い出す。「演奏者が踊ってはいけないだろうか、それは音楽ではないのだろうか? 聞いていて自然と身体を動かしたくなることが音楽ではないと誰がいうだろう! そもそも曲を聴いて感動するのは自明性ゆえなのか? 言葉がそうであるように、経験があってこそ感動を引き出すのではないか? そうであるならば楽しげに歌うことは曲や歌とはまた別に楽しいイメージを喚起させるがこれも音楽の一部ではないか。音楽を受け入れやすくするプロモもまた音楽の一部ではないか、一部ではないかもしれないが一部であっても困らない程度の些末な問題ではないか」 オーケイ、そろそろ黙ろうか、青いやつ。


はい、本題です

 音楽は経験と密接に絡み合っていて、曲や歌のみがもたらす効果だけに止まらず特定の情緒を刺激することがある(音楽に限らずなんにでもいえることだけれども)。
 今回は私が耳にするとパブロフの犬ばりに過去の体験や心情が肉体へ明確な影響をもたらす(というと大袈裟だが、音楽単体がもたらすのとは別の興奮が原因で心拍数を変化させる)音楽を列挙しようと思う。全五曲。(ほとんどが仕事に対するネガティブな精神の吐露に帰結するのだが)


思い出は億千万


 就職活動をしていた大学四年生のとき、会社説明会、筆記試験、面接に出かける前に必ずといっていいほど聞いていた。対人に多大な精神の負荷を覚える私が緊張していないはずはなかった。リングに立つ日の朝のボクサーがどういった感情を抱くのか知らないが、私は将来に対する不安感と不慣れなスーツ姿のために息苦しい思いをしていた。それを紛らわせるようにこの歌を頻繁に聴いていたが、圧迫感は歌によって条件付けされてしまい、それ以来、私が思い出は億千万を聞く度にリングに上がる前のボクサーになる。まだ若さの中にいるはずの私は中年の冴えないランカーになった気分で、今日の挑戦者は若い力で襲いかかってくるに違いないがそれによって私はリングを去る決意を得るだろうと否定的な覚悟ばかりを強めていく。ライラライ……。


ラクルペイント


 初音を「しょおん」と読んで何かが違っているはずと思っていたあのころ、私は一日のうち十二時間を厳しい上司の監督のもと過ごさねばならない生活に死にかけていた。午前四時に起床し、高校一年の夏休みに体験した剣道部の合宿を通して左足が疲労骨折するまで味わった冷たい汗の苦痛が足下から這い上がって喉の奥を塞ごうとする毎朝に聞いていたミラクルペイントは、聞けば瞬時にあの重苦しくて太陽のまだ昇らない闇の重圧を思い出させる。強制労働施設に幽閉された場合と同様の精神を体験することが強制労働施設の外にあってもよいものだろうか。疲労口内炎と朝の冷たい空気と太陽のない空の下を歩くとき、すなわちカラフルにはペントされていない人生という暗い洞窟を手探りで進むとき、仏教なしに生きられない人々の存在を思うのだった。


帰りたくなったよ


 夜勤もまたたびたび私を奇妙な気分にさせた。愛車を走らせ会社に向かいながら、夕日に顔をしかめ、一日が終わろうとしている今から私は働くのだと思うとどうにも悪魔的な罠に嵌められている気がするのだ。その愛車に乗る前に聞いてしまったいきものがかりの歌が胸をえぐる。家を出る前からそう、帰りたくなったよと思っている。毎日使っているはずのベッドの温もりを思い出せずに人生の黄昏を重ねてしまう。もの悲しくならざるを得ない切ないメロディは鬱そのものであるような情緒に深い余韻を与えこゆい輪郭を与えていった。

変わらないもの


 映画、アニメ、演劇と絡んで聞いた歌が特別な印象を持つことはしばしば起こりうる。恐らく『時を駆ける少女』を見たたいていの人がこの歌にいっそう深い印象を見出すだろう。私にしてもそれは同じだが、聞けばすぐさま襲いかかってくる感覚は冷房が部屋の隅々まで行き渡っている環境であらゆる時間の流れに繋ぎ止められていない感覚だ。学生の夏休み、自宅で自堕落な姿勢にて過ごしていた体験が即座に心身を満たす。

正夢

 最後はスピッツ。これまであげた四つと違って条件付けではないが毎回私に広がるイメージがあるので言及。
 私は夏に日差しの下へ色彩の豊かな風景を見るため自転車を力強くこぎだす人間なのだが、正夢はいつもそのときの雰囲気を連想させる。活力と仕切のない時間と空の青、花の黄、草野正宗、じゃなかった、草の緑が自転車で加速する私の視界を流れていく幸福がなぜか正夢によって自動再生される。
 この幸福がいらぬ心理と結びつかないよう、正夢を聞くときはポジティブなときと決めている。だからか、最近は聞いていない。(あれ、最後にまたネガティブに……)

*1:これの何が大それたことかといえば、つまり、私が理論的な人間だと宣言しているようなところがだ。んなこたぁないのだが。