オーケイ、問題は明日だ

 今週はずっと研修が入っている。9:30分開始、5.30分終了予定。ならば私は七時までには自宅にたどり着ける計算になる。残業が月五十時間をゆうに超え、来月は休日四日しかないかもしれないだけに、これは素晴らしい計らい。
 ところがどうだ、蓋を開けてみればどうだ、七時に帰宅できた日があったろうか? 僕らのブルーマンデーは研修直後に始まる情報交流会とやらにしゃぶりつかれた。一週間もの長丁場の研修だ、知らない人たちとうち解けるのは早い方がいいという理屈らしい。終わったのは八時過ぎで、帰宅したのは九時を回ってから。まあいいさ、初日くらいくれてやらあ。列車のつながりも良かったしな。で、火曜日はどうだ? 昨日のことだが。何かあったんだろうな、多分、列車のつながりが悪いや。三十分も待たされるだなんて思ってもみなかった。そして今日だ。西日本のJRはいつだって遅滞する運命なんだが、やれやれ、人身事故のため環状線は回らなくなっちまった。普及のめどはたっておりませんときたもんだ。あれは午後六時から二分ほど前後してのアナウンスだった。こんなこといったら不謹慎かもしれないが、ジンシンジコさん、もう三十分、や、十五分、待ってくれりゃよかったのに。俺は切符を買って大阪駅に意気揚々と乗り込んだばかりだったんだ、やれやれだ。研修の会場から小走りになって信号無視を二、三度やらかしてやってきたってのに酷い仕打ちじゃないか。どうやら地下鉄を利用するしかないようだ。アナウンスもそれがいいよといっていた。俺だってそれがいいと思ってたさ。ただ、まあ、地下鉄にゃ詳しくなかったからちょい不安だったんだが、駅員に訊けば万事よろしいって寸法だ。上ってきた階段を下りて改札口へ。ところが人だかりができているじゃないか。そりゃそうだ、あの直方体の空間で押しくらまんじゅうをやろうって企んでいた無愛想な大人達が列車の出発を待てずに改札口でおしくらまんじゅうがしたいってんだから仕方がないや。かくして俺は大阪駅に閉じこめられた。オーケイ、いいぜ、次はどうなるんだ、ウイルスがばらまかれて皆さんゾンビになっちまうのかい、それともテロリストが最新鋭の機関銃をぶっ放しながら占拠にやってくるのかい? こちとら準備万端だ、黒い鞄は盾になるし、利き腕にゃ傘があるんだ、剣道一級の実力を見せてやれる絶好の機会だ(そういや中学一年の妹も一級になったんだっけか。要するに俺様の戦闘力はそれっぽっちってことさ)。
 本屋でもあれば違ったんだろうけど、駅の外にも出られないんじゃあね。幸い手元には研修に使っている参考書とムージルの書いた本がある。選んだのはもちろんムージルだ。『静かなヴェロニカの誘惑』を繙いてみる。出発するめどの立たない列車の中で。ところがどうだ、小心者め、読書に熱中できないときてやがる。列車が動き出す。なんだ、なんだ、普及したのか? いいえ、この列車は環状線から離脱するコースに用があるんです、だと。着いた駅で即刻降りて大阪駅へリターンだ。なにやってんだ、まったく。
 それでもどうにか普及したらしいな、七時になる前に各駅停車が動き出す。回れ、環状線! タイミングを逃した俺は座席を得られず吊革を握る。本を読もうか、と考える。いや、待て、そういえば物語の続きを考えていなかった、と思い出す。丁度詰まっていたんだ、考えておかないと帰宅してから紡ぐべきものが紡げない。ええと、物語はどこまで進んだのだったかな、ああそうだ、全身目玉の化け物とおててを繋いだ主人公兼語り部が大便を理由に地底に張り巡らされた通路を経て地上に出ようとしていたところだった、や、出たところだった、思い出した。この物語は俺が大真面目に考えている超大作なんだ、本当に大真面目なんだ、でも主人公は確かに大便だけを理由に化け物をそそのかして地上へ誘導しているし、そのちょっと前はその化け物とおててを繋いだまま小便をもらしっちまった情けないやつなんだ、十八って設定なのに、まったく。こんなのが主人公をやっていけるだろうか、無理だね、そのうちヒロインに主人公の座をかっさらわれていくのは確実だし、語り部の役目だって俺が取って代わる予定があるんだ。まあ、それはまだ三年くらい先の話になるな、今のペースだとさ。やあ、目当ての駅に着いた。さあ、乗り換えようか。三番線には19:24発、二番線には19:42発。もちろん早い方がいいさ、混んでいたって構うもんか、俺は列の最後尾に並んだね。しかしあそこに見える数字はなにかな、5から8とあるじゃないか。ところが四番ホームから向こうにも人が並んでいる。あわてんぼうさん達。列車は四両編成でやってきて、長蛇の列の半分に溜息をつかせた。俺は列車に乗り込む。予定通り。寿司詰め。予定通り。まだもっと入ってくる。ホームを駆け、隙間を探す制服姿の男女が見える。あのさ、向かいのホームの快速はまだまだ空いているじゃあないか、君たちは勝ち負けでいったなら負けたんだよ、潔く十八分待ってみてはどうかな。若い連中は説教が嫌いなのか別の入り口を求めて駆けていく。やれやれだ。
 列車が動き出すと俺は三方を女性に囲まれていることに気付く。俺の手を掴んで痴漢ですといってみせるもみせないも女性達の自由。僕にある自由といったら盾とサーベルを自分の身体に押しつけて突っ立って呼吸をすることだけ。
 でもまあ、この話はこの辺りですましておこうと思う。帰ったらはてなが俺を待ってるんだ。そう思っていたのにさ、ブラウザ、切り替わるの遅いし、切り替わったら、しなもんが下品に口を開けてる。俺はやつとだけは目を合わしたことがないんだ。
 オーケイ、いいんだ、なにもかも。過ぎたことは忘れよう。だが、金曜日は名古屋に工場見学の予定だから、七時前帰宅が可能だとすればそれは明日だけになる。
 明日はどっち?