田舎

テキスト

 空は掠れたように青く、雲もまた突風につまはじきにされたみたいになっていた。子供の頃に描いた空はいつも現実の空に比べると水を混ぜすぎていたように思うし、いくらブルーをひねり出したって空には追いつかなかったものだ。コバルトブルーを使うと濃くなりすぎてしまって、不機嫌にむくれながら白を混ぜるのだけど、ますます空色から離れてしまう。しかしどうだ、今日の空は子供の頃の悔しさを慰めようという計らいか、画用紙から抜け出してきた出来損ないのスカイブルー。チョークの粉を画用紙の上に積み上げて、ふうと息を吹きかければ完成だ。靄のようで雲らしからぬ雲、小学生の僕にも今の私にも描けない雲だ。青との境界は曖昧でも、緑の連なりとは明瞭な曲線で分かたれている。
 色あせた像の皮膚のような道路は、ややあたまをもたげたところで舗装が途切れ、砂利道に変わって土手へとうねっていた。大人にも上れない傾斜と高さの下にコンクリートで敷き詰められた汚い川が流れている。それでも柵の一つもないところが田舎らしかった。土手の向こうには紀ノ川が流れているが、それを見るには土手に沿って砂利道をまだもう少し進まなければならない。土手を濃淡様々の緑色に染めている植物が砂利道に身を乗り出している。土手の反対側には畑が広がっている。田舎はどこまでも広がっている。そんな気がした。


呟き

 駄目だな、ゴミだな。
 これなら写真を見ないで思い出を頼りに書いた方が活き活きとしたものが鮮明に描けた。しかしそれでは風景描写を鍛えようという趣旨からずれてしまう。あるいは風景描写などいらぬ、ということだろうか(また身も蓋もないことを)。
 「風景描写」がしたかったので、ストーリーなど必要ないわけで、そうなると、全体から捉えていくのが筋かと思い空、山と描写していったのだが(描写になっているのだろうか?)、子供の頃の絵などという思い出を引っ張り出さずにはいられなくなってしまって、なんとも定まらない。空、山ときて指針を失ったので、素知らぬ顔をして目の前の道から描写し直すことにした。ズームを止めてパンにした、と。でも、なんだかなあ。
 なぜ失敗したのだろうか。焦点を定め切れていないからだろうか。ここ一年以上は一人称で書いていたから、全体から描写していく(カメラを遠くからズームしていく)ことに不慣れなのだ。
 次回は、山の神様にでもなったつもりで全体を優雅に見回そう。そしてやがて一人称の担い手(語り手)に受肉する、と。
 それとも他に何かあるのだろうか。
 風景描写のコツは?
 (言葉で風景を描くことはできても、風景を言葉にするのは難しい。しかし一次元化とはそういうことだし)