一次元化企画――想像力と現実・客観の狭間で

はじめに (一次元化とはなんぞや)

 現実を三次元、漫画、アニメなどを二次元と称することはネットで頻繁に見受けられるようになったが、それでは一次元とはなにかということになると定義がなされていないのが現状である。予め断っておくが、ここで一次元とは何を示すのかを議論するつもりはない。ただ、私は、モールス信号のような明滅や二進法による情報の羅列が一次元だなどとは思わず、文章こそが一次元であると主張する。(すなわち一次元化とはテキスト化のことである)
 そのような主張はさておき、イラストないしは写真を文章に変換しようというのが、今回の企画である。

方法

 1. 画像ファイルを掲載する。
 2. 画像ファイルをテキスト化する。変換器は自身。
 3. 何か呟いてもいいし、呟かなくてもいい。
 4. 「一次元化」タグをふってもいいし、ふらなくてもいい。

自分ルール (追記されるかもしれない)

その1 (設定は語らない)

 ある種のイラストは想像力を刺激し、様々な虚構を自然発生的に練り上げる。世界観を独自に生み出してしまう。しかしテキスト化にあたって、そこに設定のごときものを連ねるのはよろしくない。設定とはすなわち捏造されたものであって、読み取られたものではない。画像から読み取れぬものは変換のしようがないはずである。しかし、かといって画像にはないものを記述してはいけないということはない。画像はある瞬間を捉えたものであるとともに前後の時間に生じていた事柄についても内包しているのだから。
 また、次のようにも言える。設定のごときものを語るということは、それを知らしめようとする意志の存在を意味している。かような意識は不要である。設定のごときものは語らずともそこにあるものとしてよい(世界観を読者に押しつける必要はない。世界観を、そんなの常識でしょ、いちいち説く必要ないよね、といったスタンスで侍らせればよい)。

その2 (見たままを語る) 2009/02/24追記

 客観的に対象を観察すること。文章の表現に譬えや擬人化といった修辞法がいくら用いられようと構わないし、傘がコウモリに見えようと蛇に見えようと、そう見えたのならそのように語ればいい。対象を豊かな言葉で表現あるいは包囲することこそ描写である。しかし、見えていないものを語ってはいけない。見えていないものとは、掲載した写真ないしはイラストに写っていないもののことではない。ぎこちない言葉や陳腐な表現はばっさりと切り捨てて、豊潤なイメージと戯れること。そのコツは、言葉を信頼することである(奇妙な表現を、伝わらないかもしれないと躊躇う必要はない。もっと言葉を信頼しなさい)。