モチベーションの差異――体育会系とそれ以外

自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか(梨木香歩)作家
※小説『西の魔女が死んだ』から。

 この作家のことは知らないが、文芸ジャンキー・パラダイスの3日おきに更新・人生の名言でお目にかかって以来お気に入りの名言だ。同サイトの続・101匹名言大行進でいつでもお目にかかれる。
 この名言を知ったときに思ったことを書こうと思う。





 人間を二つに分かつ分類方法は無数に存在している。性別で分かつこと*1然り、文系と理系で分かつこと然り。(私の周りには不思議と血液型でその人の性格に納得したりする人も大勢いる*2
 世間やネットでは文系と理系で分かつことが頻繁に見られる。しかし聡明な人を見るにつけこの区分はあまり意味がないように思う。文系であっても理系であっても尊敬に値する人は双方の分野にそれなりに長けている。「この人は理系の大学に進んで優秀な成績を残しているが、文系を専門にしていてもうまくやったに違いない」という人は多いし、その逆もあるだろう*3。むしろ、この「うまくやる」人たちとそうでない人たちで分かつ方が自然な気がする。しかしこれは優劣で区分けすると解釈されそうなだけに広まらないのだろうと思う。
 そして優劣で区分けするというのなら社会的に成功しているか、していないかでも分けることができる。一般に勝ち組、負け組と呼ばれる区分だ。この分類それ自体はアホらしいこと至極なのだが、世の中の大半は(それどころかほとんどすべてが)金の力で回っているわけであるし、勝ち組の方々はその優越感ゆえにこの区分を気に入っているからか、負け組の方々の劣等感ゆえか、広く知られた区分として消えずにいる。この区分それ自体は、くどいながらアホらしさの極みなのだが、優劣双方の感覚を取っ払って一般に社会で華々しく活躍される方々や身の回りでそういった活躍を予感させる方々とそうではない方々(たとえば私とか私とか私とか)を比較してみると決定的な性格の差が見えてくる。すなわち勝ち組・負け組の区分は社会的に成功したか否かという結果論的な解釈以外にも性格の差異から解釈することもでき、その差というのがモチベーションの違いにあるのだというお話。



 私においてモチベーションがある人というのは体育会系(積極的、行動派)であり、それ以外を文系としている*4。モチベーションがある人というのは仕事に対する意欲や行動に対する瞬発力が高く、理由もなしに意欲的になれる。そういう人たちは必然と競争社会に適正を持っているし、資本主義的な社会に合致した性質をしている。「理由もなしに意欲的になれる」と述べたがこれだけでは語弊がある。彼らとて見返りは当然要求するわけだが、見返りさえあれば*5愚痴をこぼしながらもなんだかんだで仕事を完遂するし、その道から逸脱しようとしない。要するにこだわりがない*6
 他方、モチベーションのない人というのはなにやら妙なこだわりをもっている。なぜモチベーションを自発的に生成しなければならないのかという戸惑いや疑念をもっている。モチベーションとは自然発生するものであって、そのような発生の仕方をしない事柄に人生を費やしたくはないと心のどこかで思っている。
 「こだわり」という語を持ち出したが、あいにくと具体的な例をあげることができないので、「環境に対する適応力のなさ」と言い換えてみる。モチベーションのある人は逆に環境に対する適応力があるということであって、先に述べたように文系であっても理系であっても分野の違いにかかわらず一定の成功を収めただろうし、意地でも収めるし、最悪でも収めたつもりになる*7。好きな仕事に就けば頑張るし、特に興味のない仕事についても興味を高めようとするし、嫌いな仕事に就いたときも同様だし、決定的に嫌いな仕事についてしまったときはそこから脱するための努力を惜しまない。
(方やモチベーションがある人、方やモチベーションがない人。方や適応能力がある人、方や適応能力がない人。この説明の仕方からも分かるように、「○○を持っている人とそれ以外」という表現が適していて、「それ以外の人」としか表現し得ないところが歯がゆいし、「それ以外の人」を説明するためには「モチベーションのある人」を説明して、そうじゃない人たちのことだというより他ない。そして、ここが今回のエントリーの趣旨であり核心であるのだが、「それ以外の人」はこのように表現されるべきであって「モチベーションのない人」と言い表そうとするとたちまち誤謬となる。)



 モチベーションある人は先天的に容易く社会に適応する素養を持っている。社会が彼らにとっての居場所であり、そのことを疑わない(疑う必要がないのだから)。それゆえに彼らは自信を持っている。他方、それ以外の人は少なからず人生に戸惑いを覚えたり、自分の生き方に自信を持てなかったりする。それゆえに同じ行動も異なって解釈される。それは一般に否定的な行動を取るときに顕著となる。たとえばそれまで続けていたことを辞めるとき。モチベーションある人は自分の意志で現在の環境を否定し、自己に適した新たな環境を目指そうとするように見える。他方、それ以外の人が辞めるときはどうにも嫌なことから逃げ出したように映る。それは他者の目にそのように映るということでもあるが、それ以上に本人にとってもこのような否定的な解釈がなされてしまうということでもある。正当な理由があってやめるときであっても根性の不足によって逃げ出したような卑屈な気持ちになる*8。それというのも自信がないからだ。
 ここで「自信を持て」というのは大いに間違っている。それはまさに拒食症患者に「お前はもっと飯を食え」と処方するがごときだ。正しい処方箋はなにかといえば、冒頭で引用した名言がそうだ。すなわち「自信を持て」ではなく「戸惑いながらでいいんだ」だ。



 体育会系の人は、何を甘っちょろいことをいっているんだ、社会は厳しいぞ、という。しかし彼らも自分の自信の持てる範囲でしか行動しようとしない点は同じだ。ただ自信の持てる幅が広いため、意識的にモチベーションを生み出せていると勘違いしているにすぎない。淡水でも海水でも問題なく生息できる適応能力には舌を巻くが、彼らとて陸上には出られない。社会に背を向けては生きていけないが、体育会系の気質にない人間がモチベーション生成力を磨こうとする行いは見返りの少ない投資先に莫大な資金を投じる愚に通じる。淡水魚が無理をして大海へ出陣しても悲惨な結末が待っているだけだ。だからそのままでいいのだ。努力をするな、しても無駄、という話ではなく、自分の自信が持てる範囲を自覚した方が生きやすいということ。自分に還れということ。



 しかし還り方というか、帰り道が分からないもので。なかなかに難しい。こんなふうに体育会系人間へのルサンチマンとしか受け取れないような否定的な語りをやらかしている時点で道を間違えているようだ。だから逆に考えてみる。体育会系であればよかっただろうかと。もちろん、否だ。戸惑いゆえの惨めな感情を抱きながらも、こんな性格をしていなければ哲学や文学をたしなむことはできなかっただろうから。*9

*1:大脳生理学的に男女の脳には差が認められているので、性別により見出される違いは性差別に直結するものではない

*2:それとも一般にあふれかえっているのだろうか、皆さんの周りはどうだろう?

*3:私は理系大学にいたので文系大学の風景はよくわかりません

*4:運動場や体育館を使用するようなスポーツ系の部活動と図書室や情報管理室に引きこもって行動するようなインドア派の部活動という古くさい観念に近い。

*5:金銭的見返りに限らないが、特に金銭的見返り

*6:こわりがないというのはすこぶるよいことだ。こだわりという言葉は本来否定的な語であり、「こだわりの料理店」といったふうな肯定的な用いられ方は誤りだ。――とはいえもはや認められているというのが実情だが。

*7:成功を収められなかった場合はその分野の存在意義それ自体を否定する=成功しても価値はないとするため、彼らに失敗は存在しない。恐ろしいことに、成功し続けるのである。これを羨むべきか、嘲るべきか……。

*8:「モチベーションある人と比較すると、少なからずそうである」という相対的な意味合いで

*9:それだけで価値があるというのだから哲学や文学は特権的だなー、としみじみ思う。