ドラえもんとのび太とブログの散文

前口上

 愛読して永い三等兵さんのブログが更新。日記や弱音が多かった今日この頃、感嘆ものの着眼点で論考された哲学的独白はいつ見られるかと期待していたら現れたのはドラえもんのび太の愉快なやりとりだった。予想は裏切られたが大いに楽しませてもらいました。


November 16, 2008 ドラえもんのソリューション
「ねえ、のび太君。何か困ったことないかい?」
「いや、別に。勉強の邪魔しないでくれよ」

http://semiprivate.cool.ne.jp/blog/archives/000895.html


 非常にリーダブルで、会話のみで書かれているのにメリハリのある文章。ギャグであり、社会風刺であり、ドラえもんの道具の矛盾点に対する解釈でもある内容。
 これを読んだ上でつれづれなく考えたことを記そうと思う。

ソリューション

 いやしかしソリューションてなんだろう。無知な私には分かりません。
 手元の電子手帳のカタカナ語辞典を引くと「問題解決をはかるためのコンピューター−システムの構築・運営方法。またそのもとになる考え方」とある。
 ググッてみると――

国立国語研究所は8日、「第3回『外来語』言い換え提案」を発表した。今回は、「ソリューション」「デジタルデバイド」などを含む32語が提案されている。

 提案では、「ソリューション」の言い換え語を「問題解決」「解決支援」「解決策」としており、その複合語例として「ソリューションビジネス」を「問題解決型事業」、「ソリューションサービス」を「解決支援サービス」とする例を挙げている。

「ソリューションビジネス」は「問題解決型事業」~外来語言い換え提案

 ということらしい。


資本主義から逃げ出したい

「出来ればダメージ無しに言葉で教えて欲しかったものだけれどね。ああいう失敗体験が繰り返されるから、君の道具に対する不信感が生まれるのだよ」

「おいおい、僕の道具の責任のように言われても困るよ。取説も免責条件も書面で渡しているじゃあないか。」

「うん、残念だったね、のび太君。そういえば、あれは食べ過ぎると腹具合がおかしくなるという副作用があるからなあ」
「だから、そういうことははじめから言えよ!ドラえもん!」
「だから、取り説の289ページから305ページの、注意症例に書いてあるじゃないか、のび太君」
「・・・契約上、僕の失敗は自己責任と言いたいわけかい?」

 のび太は道具を使うことに否定的というか不信感があるというスタンスを明らかにしているのに、ドラえもんは口八丁でのび太に流されるよう促す。それだというのに結果がでなかったことに一切責任を取らず「自己責任」という言葉で社会的(法律的)正当性をもって突っぱねる。
 あー、あるある、と呟いてしまう。嫌だとか駄目だとかいってやってんのに勧めてくるからしゃあなしでやってあげたら案の定失敗して、ほら失敗したぞ、だからやりたくないといったんだと訴えりゃ、相手は「そんなことは知らん」とくる、あれのことだ。


「いやな事情だなあ。それだから僕は安物を掴まされて結局苦労するんだな。(後略)」

 資本主義ってやつは、まったく、まったく。社会や科学は人類の発展のために機能するべきなのに、経済的な回転がないと前に進まない人間的なシステムがあるからうまくはいかないわけで。企業は儲けることをこそ正義と唱え、価値創造をした見返りとしての銭を得ることではなく、水増しされた価値をいかに偽造して売りつけるかに腐心する。得られた銭で同じことを繰り返す。この回転をすることだけが企業が発生的に獲得した機能であって、企業が哲学的に内省して人類の役に立つことを第一に行動し始めるよう期待するのは愚かなことなのだろうけど、やっぱり、なんだかなあと思ってしまう。で、我々はその回転を促すための駒に過ぎずただ消費を脅迫され続ける。逃げだしたくなる。
 やっぱり人間的成長が人類全体の成長よりも先に必要なんだな。それ(=自力での学習)をしようとするのび太をそそのかすドラえもんのび太個人の成長を妨げ、ひいては人類全体の成長の妨げになっているわけだ。
 人間なんて物質的に恵まれたところで満足することはないんだから、精神的に恵まれるよう工夫する方がいいんじゃないか。そういうわけで文芸復興が再び起こることを期待するのだが、ポストモダンという大問題を思うと、これは革新ではなく保守なんだろうな、みんなすべて忘却してしまって楽しかったあのころへ戻ろうぜ、みたいな(あ、それってまさにこの私の願望だ)。


もったいない……

「だからこそ使えと迫るのさ、のび太君。
 いいかい、日本では昔から米粒一つ残すとお百姓さんが泣くと教えられてきただろ。道具が使われなかったら発明者だって泣くさ」
「その文化のせいで日本型メタボが増えていくんだよなあ。実際には、お百姓さんが泣くどころか、国の方針で減反されているくらいだしさ」

 「もったいない」信仰が日本にはある。食べ物を残すことは食べ物(=もともと生命であったもの)と料理人に失礼に値するのだと教育される。それ自体は悪いことではないし、その信仰に染まっているのは私も同じだし、同じゆえにこの教えを実践できている人に共感と品格を感じるのだが、それにしたって、焼き肉屋なんかで明らかに超過した注文だと分かっているのに注文して案の定満腹のために食べられなくなって、それでも「お残しはゆるしまへん」との強迫観念のもと肉を喰らう人たちを見ていると、ここはどこの地獄だと首をかしげてしまう。残飯を生じてしまうと分かっているのに(あるいはそれに対して無頓着でいるために)超過注文をしてしまった時点で一つのもったいない行為をしているというのに、それを無理に満腹の腹に詰め込んでは健康を損なってしまうから更にもう一つもったいない行為をしていることになる。


そろそろ締めくくる

 文学的なことをいえば、会話文を多用する場合にメリハリをつけるのは非常に高度なことなのだが、三等兵さんは鮮やかに書くなあ。
 ブログという媒体が会話文の連続に適しているのか。話の短さゆえか。のび太ドラえもんというキャラクターが筆を弾ませたのか。



ああドラえもん、僕はいつごろ大人になるんだろう?

 本当だよ、まったく。
 いや、でも、子供の頃に思っていたような大人は現実にはいなかったんだと分かっているだけでも、少しは大人ということなのか。