瞬殺王クロード・シモンorz

 アマゾンから本が届いた。
 『フランドルへの道』
 『ファルサロスの戦い』


     


 クロード・シモンとは……
 ああ、いやいや、ウィキペディアを引用しましょう。

クロード・シモン(Claude Simon, 1913年10月10日 - 2005年7月6日)は、フランスの作家。アラン・ロブ=グリエミシェル・ビュトール、サミュエル・ベケットらと並ぶヌーヴォー・ロマンの旗手の一人。1985年 ノーベル文学賞を受賞。代表作に『フランドルへの道』『ファルサロスの戦い』など。

クロード・シモン - Wikipedia

 ノーベル賞作家。お偉いさんですね。
 ではヌーヴォー・ロマンとは?

ヌーヴォー・ロマン(Nouveau roman、「新しい小説」の意)は、第二次大戦後のフランスで発表された前衛的な小説作品群を形容した呼称で、アンチ・ロマン(Anti Roman、「反小説」の意)と呼ばれることもある。1957年5月22日、ルモンド誌上の論評においてÉmile Henriotが用いた造語。 実際には、明確な組織・マニフェスト・運動があったわけではなく、従来の近代小説的な枠組に逆らって書いた同時代の作家達を総称するためのジャーナリスティックな呼称であるが、1963年には「新新フランス評論」誌などでのアラン・ロブ=グリエによる論争的評論が『新しい小説のために』(Pour un Nouveau roman)としてまとめられている。 上記のロブ=グリエをはじめ、クロード・シモンナタリー・サロートミシェル・ビュトール等が代表的な作家とされ、広くはサミュエル・ベケットマルグリット・デュラス等を含むこともある。上記作家の小説作品の多くがミニュイ社Éditions de Minuitから刊行されていることは単なる偶然ではない。

作者の世界観を読者に「押しつける」伝統的小説ではなく、プロットの一貫性や心理描写が抜け落ちた、ある種の実験的な小説で、言語の冒険とよんでいい。その技法は「意識の流れの叙述」(ナタリー・サロート)や「二人称小説」(ミシェル・ビュトール)、「客観的な事物描写の徹底」(ロブ=グリエ)など様々だが、読者は、与えられた「テクスト」を自分で組み合わせて、推理しながら物語や主題を構築していかざるを得ない。サルトルやバルトらに擁護された面もある。

ヌーヴォー・ロマン - Wikipedia

 実験的な新しい小説で、いくつかの種類があるということですね。


 当方はヴァージニア・ウルフが好きで、といっても一作品しか読んだことがなく、すなわち『灯台へ』がそうなのですが、ウィキペディアの引用にある「意識の流れ」という手法の代表的作品で、折に触れてはこれは素晴らしいと呟かされる作品です。
 また、金井美恵子も好きで、日本人文学作家のなかでももっとも上手い作家だと思いますし、実際、もっとも上手い作家の中の一人に数えられます。ヌーヴォー・ロマンを理解・実践可能な唯一の日本人かもしれません。『文章教室』で彼女の作品に入門し、短編集『愛の生活』を(やや眠たいながら)たしなみ、初の長編小説『岸辺のない海』にこれこそが書く行為でありこれこそが作家の本質だと何度も頷いた所存です。
 こうして二人の女流作家の作品を楽しめたので、ヌーヴォー・ロマンの何を恐れるものぞと意気揚々とし、余裕を持って吟味・堪能してやろうとクロード・シモンに手を出したわけです。






 瞬殺でした。
 私の負けでした。
 『フランドルへの道』を16ページほど読んだときにはもうすでに本を閉じようとしていましたし、次のページにカギ括弧が見えたので会話文ならどうにか読めるだろうと頑張ってみたのですがこれまた難解でどうしようもありませんでした。会話文が終わってから一ページと読み進まないうちに本を閉じました。



 読めねーよ、バーカ!!!



 漫画『G戦場ヘブンズドア』によると、漫画の構成要素は「絵×物語×意志」ということでした。
 この場合の意志というのは主義主張であったり創作への哲学や意欲で、特別なプラスαの要素です。
 小説に置き換えると「物語言説×物語内容×プラスα」
 クロード・シモンの場合プラスαは「ヌーヴォー・ロマン」という主義。そして「ヌーヴォー・ロマン」という主義は「言説」への創意工夫と見なせるし、「物語」の破棄と見なせるので、私が持ち出した馬鹿な式に照らし合わせますと「物語言説^2」ということです。
 一個の長い作品の構成要素が99%エクリチュール!!!



 読めねーよ、バーカ!!!



 小説とはエクリチュールでありこれを吟味できる読者こそが真に文学をたしなんでいるものでありそれはすなわち「物語なんて飾りですよ、偉い人(=馬鹿な作家・読者)にはそれが分からんのです」と言い換えることが可能であり、その証拠にクロード・シモンの本を開けばまあ和訳されたという意味で加工はされているのだけれどだからといってその本質が根本的に改変されたということはなくその読みにくさは原文を通さずとも伝わってくるわけで、思うにせめて句読点を適切な箇所に放り込んでくれればずっと読みやすくなるのにそれを敢えてせず、というよりは正鵠を期するなら敢えてどころかごく自然に句読点を無視しているというか彼の文章力は句読点という本来文章力のないものが使用する補助的な記号など邪道と一笑に付すがごとくで理系大学出身の私がもし真似たならば容易くねじれ文を導いてしまうことは想像に難くない難解極まりない文章を連ねるのである。金井美恵子の文章もまたどこで息継ぎをしようかと頭を抱えさせられる長さでうねって私に迫ってくるがそうはいっても彼女は日本人で私も日本人という事実が幸いしているのかどうにか読めたものだし意味が分からなくても不思議と文章のリズムに魅せられて読み進むことができたしそもそも文章の意味などどうでもよいのだゴトリと転がっている言葉を純粋に楽しむだけでいいしそれが純文学――純にはもっぱらという意味があるのでもっぱら文学しているという意味の混じりっけなしの文学――の本来あるべき姿なのだといわんばかりで、なるほどそうかも知れないと知ったふうに納得したものだったがクロード・シモンを読んだ瞬間に私はにやにやと笑い出して読書を放棄しようとしていたしそれが何よりも幸福なことに思われた。対象描写における逆説的矛盾として長く書けば書くほどより詳細に説明できるかと思えばそうではなくいっそう複雑で不理解極まりないものに変質させてしまうという理屈がありそれは専門的には異化と呼ばれているのだが、異化とは自明性の喪失を促す作用であり自明性の喪失は統合失調症の定義であり彼の作品を読んでいた私は俗世でいうところのキチガイになりそうで薄気味悪い笑みを浮かべていたに違いなく、長いという単純な理由により文章が何を示したいのか全くイメージできない私にとってこれは本当にノーベル賞クラスの作品なのかと首をかしげたしブログにてこのように垂れ流すような長い文章をやっぱり垂れ流しているわけだがノーベル賞受賞者との決定的な違いは帯びにある通り《豊潤な言葉のフィールド》に盲目のまま立ちつくしているか爽やかに疾駆しているかという決定的な差なのだろうと私は思った。



 だから読めねーよ、バーカ!!!



 バーカ!!!
 てか悔しい。
 もうね、あれだね、今まで小説を読んでいたのが見栄だってよく分かった。
 そんなつもりなかったのに、「こんな高尚な小説を読んでいる俺ってステキじゃん」ってナルシストね。
 本物に出会って自分の愚かさを知るというか。
 や、ヴァージニア・ウルフだって金井恵美子だって本物中の本物なんだけどさ。
 見栄ったって、高見を目指す欲望という意味ではアスリート的で健全なものなんだしさ。


 さて、ノーベル賞受賞者のこの二冊、どうしようか。
 いつ読めるようになるだろう。とりあえず今日は頭がぼんやりしていたからそのせいだ。スピッツの歌詞じゃないが、《文字を目で追って またはじめから》状態だった。
 きっといつか読めるし、読んでやろう。
 今日のところは勘弁しといてやる。