詩と散文の私的なイメージ

あくまでイメージの話

 私にとって散文とは、表面をなぞるものであり囲うもの。言葉は曖昧で、実体がなくて、常に不完全で、それゆえに「まさにこれ」と指で指して示すことができず、伝えたい事柄の周囲を行ったり来たりして覆うことでその中心にあるものを連想させる。寄せて返す波のようであり、くっつきそうでありながらなかなかくっつかない恋愛漫画の男女のよう。文学的な文章を書くコツとして「私は悲しかった」といった直接的な表現は避けて別の言葉を使うことというものがあるが、それのことだ。自然と言葉数が増える。言葉の包囲網が対象の輪郭を浮き上がらせ、内容を推し量らせる。
 これに対して詩は骨であり、その骨に備わるであろう肉を感じさせるところに詩の決定的な力がある。濃縮された言葉があるというよりは、言葉の野太い真理が横たわってそこにあって、その力強い真理が周囲に様々の情念を引き寄せる。唱えられた一つの言葉が、唱えられていない無数の言葉を纏う。

 世の中には詩的な散文があれば散文詩もあって、両者を分かつことは本当はできない。あくまでイメージの話、と断っているのはそのためである。

 私は詩の作り方がよく分からない。自分で書いてみた詩はどれもこんにゃくのような骨をしていて立ってくれず、だらしなく地面に頽れてしまう。俳句や短歌のような形式によってかろうじて詩らしい雰囲気を与えることはできても、そこにあるのは脊椎動物の背骨とは違って昆虫の外殻のようなもの。ということは(外殻ということは)先の散文のイメージに近いので、自分では詩ではない気になる。
 偏見も入り交じっているが、詩は必然性を持って生まれるものと思う。溜めに溜め込んだ荒ぶる魂が決壊する瞬間に詩が生まれる、というイメージがある。それゆえに詩は啓示的であり神秘的である。ところが、私の場合、溜めに溜め込んだ荒ぶる魂がついに飽和してしたたり落ちるときも、その言葉は散文になる。
 否定的に捉えるなら*1、これは、詩という真実の姿に言葉が追いつけず、かろうじて周りを囲むに留まる、いわば詩に敗北した形でしか詩を書けないということになる。恐らく、きっと、私のような軽い気持ちではなく真剣に詩と向き合っている人であっても(私よりもっとずっと高い領域で)同じように敗北することでしか詩を書けないのだろう。
 しかし、私はすでに無意識で言葉を使い分けてしまっていたことに気付く。溜めに溜め込んだ荒ぶる魂が、《決壊する》のが詩といっておきながら、私の場合の話になると《飽和してしたたり落ちる》と表現している。私は生まれついての散文派なのではないか。
 
 

脈絡のない反省

 所詮、イメージの話である。
 羊飼いが羊を放牧している草原で作る詩は音感に頼ったものであり私の思う骨はないので私の思う詩ではない、といえるので、本当に、所詮、偏見溢れるイメージの話であって誤謬に通じている。
 とりあえず今後は固い頭をこんにゃくにして、詩でももっとなんでもありなのじゃないか、と思ってみることにする。
 それでもやっぱり、こういうことは思うと思う、詩というのは、「ギクリ」とか「ドキリ」とか「やられた!」とか、そんな感想がまず最初に来るものだと。

*1:私にとっては、否定的な捉え方です