麻雀と博打の親和性〜麻雀放浪記を読んで〜
麻雀放浪記、青春篇を読みました。

- 作者: 阿佐田哲也
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2007/10/10
- メディア: 文庫
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帯を見ると藤田晋社長の推薦文が書かれています。
「麻雀の魅力に取り憑かれるきっかけになった小説です」
しかし中身を読んでみるとイカサマばっかり。
これ、麻雀じゃないんじゃね?
手品の勝負になってない?
麻雀の魅力とは一体……?
や、とても面白かったのですが、改めて麻雀とギャンブルの親和性の高さを考えさせられました。
舞台は戦後まもなく、焼け野原になった東京です。
職がない、お金がない、そんな人ばかり。
主人公の“坊や哲”もご多分に漏れず、初登場時には収入を求めて暗い気持ちで彷徨っている姿が描かれています。
そんな時分に、それでも生きていこう、お金を稼ごうとなったときに非合法な手段に手を出す人がいるのは世の常です。
博打で一攫千金。これが手っ取り早い。
ただ、チンチロリンのようなサイコロ勝負では運否天賦の勝負になってしまいます。
少しでも熟練度が関係してくる内容であった方が運に頼らずにすみ、収入が安定するはず。
そこで麻雀に白羽の矢が立ちます。
運の要素が大きいものの、ゲームへの習熟が結果に影響する割合はチンチロリンの比ではありません。
しかし、実力があっても運がなければ常勝とはいきませんし、ここ一番の大勝負でコケては儲けがありません。
また、実力で劣る人は稼げません。
それではどうするか?
イカサマをやるんです。
彼らにとって賭博は遊びではありません。生活費を稼ぐツールです。生活がかかっている以上は、人生を賭けているようなもの。そこには綺麗事など存在しないのです。
現代ならこうはいきません。
オリンピックに命を賭けているからといってドーピングははっきりと悪とみなされます。
ドーピング(イカサマ)が消滅する方へと、業界全体へ自浄作用が働きます。
しかし、麻雀を巡るこの賭博の世界では、皆が皆、他人を出し抜いて銭を稼ごうと目論んでいますし。そういう人たちの集まりが、やがてイカサマを前提とした麻雀を打ち始めるのは想像に難くないといったところでありましょうか。
そうやって博打で生計を立てている人たちのことをバイニンといいます。
面白いのは、彼らはイカサマというルールを逸脱する手段に手を染めているにもかかわらず、勝負に負ければ賭け金をしっかり支払うところです。
多少はだだをこねたりもしますが、勝負に負けて金を払えないようでは勝負師の面目丸つぶれとなり、この面子を金銭よりも優先しているようです。
彼らにとって賭博は金を得る手段であるものの、その賭場が成立している環境を重んじているということでしょう。その環境がなければ、そもそも人生も存在しないのだとわきまえているふうです。
ぼくらが国に税金を納めるのに似た律儀さがそこにあります。
イカサマはバレない限りにおいてイカサマではなく勝負師の腕前と見なされます。
たとえ天和を二連続であがったとしても、イカサマする瞬間を押さえられなければ、「運が良かったね、あんたの勝ちだ」というしかなくなります。
逆にいうとイカサマの現場を押さえられるとどうにもなりません。
こうなると隙を見せた方が負け、不用意に動いた方が負けといった、あたかも格闘漫画じみたロジックができあがります。
小説の最終戦がまさにそれでした。イカサマ(もうそろそろ裏芸というべきでしょうか)込みで、金が尽きるまで徹底的に雌雄を決する大勝負はかなり読み応えがありました。
バイニンが純粋に金銭的収入のみを目指しているのなら、カモを相手にし続けるのが妥当です。バイニン同士で大きな勝負をする必要はないはず。*1
実利を捨ててまで勝負を欲するのはプライドを賭けているからなのでしょうが、それならイカサマを排した麻雀で勝負すればいいのに……と思います。
これは一体、麻雀なのか……?
いいや、これもまた麻雀なのだ。
そんなふうに考える人たちがいるため、良くも悪くも、麻雀のイメージは現代においても博打のイメージとは切り離せない関係にあるのでしょう。
*1:同じ賭場にバイニンはこんなにも要らない、みたいなノリでつぶし合うのなら分かりますが。