路上は罠だらけ

 今年は交通事故に縁がある。
 まったくもって望ましくない縁だが。
 通勤で車を使うようになってずいぶん経つが、今年まで事故に巻き込まれたことはなかったし、事故が起きる瞬間を目撃したこともなかった。起きるときは続けて起きるものなのか。
 
 はじめて事故に遭ったのは一月のことだ。後ろから追突された。いわゆるオカマを掘られるというやつだ。
 これがいつ思い出してもしょうもない事故だ。回避不能でもあった。
 信号待ちのときに追突されたわけだが、あんな五百メートルも直線が続いている見晴らしの良い道路で、しかも信号が赤だと判別できていて車を徐々に減速させつつあるドライバーが、なぜ追突事故など起こすのか。まさかぶつかってくるとは思わなかった。あれでぶつかってくるのならすべての赤信号で事故が起きてしまう。
 聞けば前方不注意だという。前方でなければどこを見ていたのだろうか。スマホだろうか。
 追突された箇所はぺこっとへこんでいた。一見たいしたことがないような気もするが、車なんてのはぺこっとへこんだだけでどばっと金が飛んでいく。ざっくり三十万の修理費がかかった。
 交通事故時の対応など知らなかったが相手が全部やってくれた。警察を呼んで、保険会社も同じだったから話も円滑に進んだ。
 この程度なら、こういう体験をしておくのも悪くないだろうと思ってすませられた。
 
 ところが一ヶ月もしないうちにまた追突されたものだからたまらない。
 しかもまた真っ直ぐな路上での出来事だ。そこは何十?も信号がなく、ひたすら真っ直ぐの道路で、法定速度は時速六十?だが、多くのドライバーがそこにちょいと色をつけて走りがちで、群れからはぐれた羊が覆面パトカーに喰われていく、そういう高規格幹線道路のたぐいだ。
 交通量が多く、帰宅ラッシュの時間帯はそれなりに注意が必要だ。合流してくる車を避けるため僕は右車線を走っていた。遠目に回転灯が見えた。サイレンは聞こえないから、救急車ではなくパトカーだろうと察した。速度超過で捕まったドライバーがいるのかと思ったが、どうやら追突事故があったらしく、普通自動車とトラックが路肩に止まっていた。
 パトカーにひかれがちだった意識を前に戻した。その先は下り坂になっているが、下りにさしかかる前に車間距離がにわかに詰まってきた。
 これはまったくの想像になるが、左車線を先行していた車が下り坂にさしかかったとき、道の先が込んでいる様を見て、かなり無理矢理に右車線へと割り込んできたのだろう。これに応じて割り込まれた後ろの車は連続的にブレーキを踏んでいく。坂道にさしかかっていたドライバーたちは前方の割り込みとブレーキランプの連鎖を目視できていて対応が早いが、坂道にさしかかっていなかったドライバーは予期せぬ減速に対応が遅れる。そのため後ろの車ほどブレーキが遅れて車間距離が縮まっていったのだろう。
 僕は前の車のブレーキランプを見て自然と減速していたが、減速の度合いが想定を上回っていて、これは追突しかねないと肝を冷やしながらブレーキを強く踏み込み、すんでの所でほぼ停止に近い速度となった。
 追突を免れてほっとしたの矢先、後ろから衝突音と衝撃が訪れた。何だ、何が起きた、とミラーを見上げ、ミラーを一面埋め尽くす真っ白な光によって追突されたのだと悟る。急ブレーキに対応できなかったのだろう。それは分かる。だが追突してきた車はなぜか止まらない。ミラーには荒ぶるフロントライトが映る。二度目の衝撃が押そう。なんだ、この車はなぜ止まらない、追突して自暴自棄になっているのか、頭がおかしいのか、おかしいのか、酔っているのか、流行の危険ドラッグとかいうやつか、殺される? これもしかして俺死んだか?
 死亡エンドもあり得ると本気で思ったが、後ろの車はどうにか停止してくれた。前の車にはどうにかぶつからずに済んだ。戸惑いながら加速していくその車の尻を見送りながら、今の急な減速は何だったんだろう、僕も戸惑い気味に立ち去る側でありたかった、と思った。
 車から降り、追突してきた車がワゴン車だと知った。トラックかと思っていたが、全然違った。危険ドラッグを決めているドライバーが錯乱して襲いかかってくるかもしれないと警戒していたが、ワゴン車の後ろを見ると更に追突している車があった。そこで僕はやっと後ろの車が止まれなかった理由を察した。危険ドラッグではなく玉突き事故のせいだった。
 あとで知ったことだが、後ろのワゴン車も僕と同様にブレーキが間に合ったらしい。だがその更に後ろはというと、前方不注意でほとんど減速が間に合わないまま突っ込んできたようだ。また前方不注意か。前以外見るとこないだろうに。
 警察に通報する必要はなかった。別件の事故で警察官が近くにいたのは救いだった。誘導してもらって車を路肩に移す。タイヤが噛んでいて変な音がする。廃車確定のぶっ壊れぶりだ。
 警察の対応が早かったおかげで交通事故による渋滞はかなり緩和されたはずだ。通り過ぎていく車から好奇心の混じった視線を感じた。僕も見て通り過ぎる側でありたかった。
 警察官が近くにいてくれたのは有り難かったが、別件の交通事故が二件あったせいで実況検分がかなり遅れ、二時間待たされた。帰宅できたのは更に一時間後だった。
 
 修理費は八十万相当だと言われた。
 しかし事故を起こしたドライバーの保険には全損特約がついていないため、全額は出ない。七年目の車なので時価評価額は低く、三十万しか出せないとのこと。この野郎ふざけやがってと思ったが自分で調べてみても相場はそんなものだった。悲しみである。
 漠然と、自動車保険に入っていれば大丈夫と思って生きてきたが、保険というものは基本的に自分が事故を起こしたときにカバーしてくれるものであって、自分が一切悪くない被害者の側だと何もしてくれないのである。
 新車に買い換える場合は時価評価額とは別に二十万ほど保証してもらえるそうだ。僕の保険からも五万円程度でるという。合計五十五万、これで新車に乗り換えることとした。
 
 ちなみに事故が起きた日は車検を終えた翌日であった。
 車検費用は亜空間に呑み込まれて消えた。現実は非情である。
 
 
 
 この事故以来、僕は車間距離に敏感になった。
 車間距離を詰めてくる車はすべて信用ならない。
 この感覚を持つと路上を走る四割のドライバーは信用できなくなった。
 路上は危険運転で溢れている。
 他の車の追突事故の現場を二件目撃した。自動車の危険運転に動揺した原付の横転事故も見た。(僕が止まれなければ原付の運転者を轢いていた)
 事故をなくすには車をなくすしかない。車をなくせないのなら、それは事故死を容認しているようなものだ。毎年交通事故の被害者が出る代わり、社会は回る。しかし僕だってコンビニやスーパーに物資が届かないのは困る。ナイーヴな神経では生きていけない。この世は地獄だ。
 
 
 
 そんなこんなで九月になった。
 そしてつい最近、またもあわやという危険事態に直面した。
 
 大雨の朝だった。
 まだ日も出ていない時刻だ。ライトをつけていても見通しが悪い。大きい道に出るまでは安全運転厳守だし、大きい道に出てからも車間距離には要注意だ。スピードは出せない。
 高架下の信号を曲がり、高架に沿って進み、弧を描いて下る高架と合流する。
 前方を確認すると信号二つ先でハザードを出して止まっている車があった。その車を避けるために右車線に移りたいところだが、後ろから車が追い上げてきている。高架を下ってくるのでそれなりに速度が出ている車だ。それを先に行かせて、その後ろに着くとしよう。僕はそう考え、意識をサイドミラーから前方へ戻した。
 そこで何かがおかしいと感じた。
 何がおかしいのかは分からない。
 前方には何もない。
 ハザードを出している車まではまだまだある。
 しかし何かがおかしい。
 何となく散らかっている気がする。
 何となく。
 雨風でゴミが運ばれてきて路上を汚しているのだろう。こんな天候の日にビニール袋や紙くずが散らかっているのはよくあることだ。
 ふと何か白いものに気づく。白い何かがあるような気がする。たとえば白い発泡スチロールの箱、あれが二つ積み重なってるような感じか。
 路上にあの箱が?
 風で飛ばされてきた?
 だが積み重なるか?
 誰かの悪戯?
 路上が街灯の光を返しててかっているだけかも?
 何か分からないがとにかくやばい。後ろに追突してくるような車がないことを確認しつつブレーキを二段階に分けて踏み込んでいく。何だろう、何が何だか分からないが、とにかくヤバイ、何が何なんだろう、何がヤバイのだろう、とにかくヤバイ――
 追い上げてきていた車が追いついてきて併走する。発泡スチロールの箱だとしたら、はじき飛ばされて僕の前に転がってくるだろうか、あの白いのはなんだろう、幽霊みたいだ。
 二台の車が併走している。ライト二つが前方を照らしている。しかし高架を抜けてからも若干傾斜が続いているためライトが下向きになっていて白い謎の物体は依然、闇の中にたたずんだままだった。
 減速気味の僕の脇を車が追い抜いていく。
 その瞬間、僕は正体を認識した。
 それは横転した車だった。ライトが破損し、シャーシ部分をこちらに見せているため、真っ暗な闇に溶け込んで見えなくなっていた。ブラックマジックだ。
 僕が見ていた白いものは横転した車のボンネットだった。近付けば近付くほど見える角度に回り込んでいくことになるから最初は見えず、徐々によく見えるようになっていたのだ。
 僕を追い越した車は、右車線を完璧にふさいでいる事故車に衝突寸前のところで停止した。僕はその脇を戸惑い気味に抜けていった。タイヤが異物を踏んでいく。ガラス片か何かだろう。散らかっているわけだ。何が散らかっているのか分からないが、とにかく散らかっていた。
 一体全体、誰が想像できるだろうか、闇の中に横転した車が壁を作っていると。しかも保護色で隠蔽されているなんて、ひどい罠だ。
 ハイビームで走っていたなら難なく気づけただろう。だがその日、ハイビームで走っている車には一台も遭遇していない。眩しすぎる光を振り回して走るのも危険なだけだ。
 もし右車線から追い上げてくる車がいなかったとしたら、僕は間違いなく右へと車線変更していた。突然現れる黒い壁を回避できただろうか。

 この世には罠が多すぎる。