イギリス文学が好きだったらしい

灯台へ (岩波文庫)
灯台へ (岩波文庫)
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ヴァージニア ウルフ
岩波書店
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 バージニア・ウルフの『灯台へ』は僕が知っている小説の中でも五指に含まれる名作だ。至高の小説の一つといっても過言ではないどころか、まさにその通りであるとしかいいようがない。大学生の頃に岩波文庫から出ていた御輿哲也訳で読み、以来、心酔している。
 
 それだけに新訳として登場した『世界文学全集 ?-01』に収録されている『灯台へ』が残念でならない。はっきりいって訳がダメダメで、お話にならない。普段、訳については甘めに採点する僕が*1全力で否定するのだから、これはよっぽどのことだ。
 

 
 新訳で読めるのを楽しみにしていただけに落胆が激しい。だが、だからといってハードルを高く設定していたつもりはない。ちょっとやそっと悪いくらいなら新訳で読める喜びが勝ったはずだ。ところが実際にはどうか。初回の読書から当惑させられ、五十頁も進まないうちに我慢ができなくなった。これはちょっと駄目かもしれないと覚悟して初めから読み返していくと一ページごとに粗が見つかるようになった。そもそも日本語になっていない。文意が通ってないのだから読めるはずもない。
 この新訳の担当者は他作品の翻訳でも同様の仕事をしている。いわば前科持ちだ。
 『灯台へ』の原文は恐らく難解だろう。一度も開いたことはないが難解に違いない。訳をしにくいのは分かる。十二分に分かる。訳者によって訳にバイアスがかかるのも分かる。それは仕方がない。人間、間違いを犯す生き物だから誤訳だってあるだろう。一個や二個でぐだぐだいうつもりはない。ただ、訳者がこの作品を――つまり『TO THE LIGHTHOUSE』を――どのように解釈したのか、それがまったく見えてこないのが腹立たしい。『灯台へ』は地の文の多くを内的独白が占め、それが誰のものであるか見極めるのが難しい。その解釈を違えば訳者ごとに違った訳がなされることになる。最大限に気を遣い、神経をすり減らして訳出するはずだ。過去に同じ作品を訳した先達の仕事ぶりも当然、参照するはずだ。その結果、この新訳の担当者はどのような解釈に至ったのか?――僕にはなんら解釈したようにはみえない。どこをどう頑張ったのか、どのように汗を流したのか、どこに苦悩があったのか、まるでみえてこない。あえていうなら「夏休みの課題に出てた英語の小説を一冊訳す課題、あれ、やっておきましたから」というレベルだ。原作を理解しなければ翻訳できないはずだが、いかようにも理解しているとは思えない。
 しかしあとがきを見ると、訳者当人が文章を連ねているのだが、そこにはちゃんとした日本語が並んでいるし*2、本作に対する認識も僕と何も変わらない。どこが肝であるか、ばっちりみっちり把握しているのだ。
 ……ひどく口惜しい気分になった。
 想像になるが、この人は原作を読めているのだろう。理解できているのだろう。だがそれが日本語訳にはまったく現れていない。後書きの雰囲気から察するに、当人はいい仕事ができたと思っているようだが、僕にはほとんど冒涜に近いとさえ思える。僕が作者だったなら訴えている。
(ちなみに、海外の言語を日本語に訳した際に日本語らしからぬ文章になるいわゆる欧文脈は僕の大好物なので、訳が硬いから駄目出ししているというふうな事実はない。ただ純粋に「これは日本語じゃない」と失意に暮れるばかりだ。御輿哲也訳を参考にした気配がまったくないことも不可解極まりない。まさか先達の仕事ぶりを参照しなかったのだろうか?)
 
 
 
 と、批判的なことを書いたが、もうすんでしまったことなので仕方がない。もっといろんな人に『灯台へ』を訳してもらいたいのが本音だから、駄目出しばかりしても逆効果だろう。この訳者にしても次の仕事を頑張ればいいというだけのこと。*3
 それよりも日本でのウルフの知名度の低さが納得いかない。ウルフ作品の新訳がバンバン登場していてもいいはずなのに、軽視されすぎではないか*4。ウルフ以前以後で分かつことが可能な世界文学史上のターニングポイント、その中心に位置する作家じゃないの!? 日本はウルフをナメてんの!? あと「意識の流れ」技法を用いた小説としてしばしば『灯台へ』が挙げられるが、『灯台へ』までいくとウルフ固有の技術になっていて、ふつう思い浮かべられるジョイスの使うような意識の流れ技法とは別物だと説いた方がいいんじゃないの?*5
 
 
 
 更に。グーグル検索をかけると件の訳の『灯台へ』が引っかかり、感想やレビューの類が読めるのだが、どれを見ても好評ばかりで、どうにも鼻白む。ウルフの神懸かりの構成だけでも十分評価に値するが、あの訳で気持ちよくなれない僕には「訳が読みやすかった!」といった感想が特に信じられない。一体どこに目を付けているのか? 何を読んでいるのか? あのぎこちなくて冒涜的な文章で白けずにいられるものなのだろうか? いっそ「なんかー上流階級の人たちがーお喋りとかー考え事とかしていてー、それだけしかなくってー、退屈? みたいな?」という感想の方が真摯に読めてるように見える。
 あの悪質さ加減は一読して分からないものなのだろうか?
 しかし、かくいう僕も同訳者による『嵐が丘』を楽しめてしまったクチである。誤訳だらけとはまったく気付かなかった。人の頭は何も知らなければ目の前のものを良い方へ良い方へと解釈して済ませてしまうのだろう。
 
 
 
 ところでエミリー・ブロンテの『嵐が丘』も僕の好きな小説であり、文学マイベストを十作品挙げろとでもいわれたならリストのトップを真っ先に埋める作品だ。
 この『嵐が丘』も『灯台へ』と同じイギリスの作家による作品である。
 僕はこの事実を意識したことがなかった。
(さて、やっとエントリのタイトルを回収する段に入った!)
 驚きの発見だった。
 一瞬、イギリス文学が好きだったのかと思ったが、サンプル二つ程度で断定するのは早計だろう。そこでこれまで読んだ小説をさらっと見返してみると、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』やルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』が格別お気に入りであることに気付く。これらもイギリスの作品だ。
 特にウルフ、エミリー、オースティンはフェミニズムの観点から評されることが多い女性作家だ(ルイス・キャロルは男でロリコンだが……)。
 更に共通点を探してみると中流階級以上の婦人*6が主人公ないしは主人公級の扱いを受けている。(……これで個人的にはいろいろと納得できてしまった)
 
 
 
 意外だった。イギリスの文学史なんてほとんど知らないのに。
 むしろアメリカの文学史の方が(なんとなくというレベルで)知っているくらいなのに。しかしあっちの小説は琴線に触れてくるのがない。『ライ麦畑で捕まえて』とか『グレート・ギャツビー』あたりはイイハナシダナーと思うがそれでお終い。お腹いっぱいで読み返す気分にならない。フォークナーやピンチョンまでいくとこちらの読書レベルがおっつかなくて味読できないし……。
 フランスはどうだ? ドイツは? そもそも日本は? と改めて見回し、『クマのプーさん』の表紙を眺めながら、やはりイギリス文学がツボらしいと思った次第である。
 
 
 
 完

*1:僕自身は外国語がまったくできないので厳しく見ることができない。できるはずがないのに!

*2:文章でメシ喰ってるレベルだとはっきり分かる日本語!

*3:今のところ悪化してるように見えるが……。

*4:いや四年前に光文社から『ダロウェイ夫人』が出てるからこの怒りはお門違いか。いやいやいや『灯台へ』を出そうよ!

*5:技法上のルールも運用される場面もまったく異なっているし!

*6:いわゆるお嬢様でございますわオホホ。