表現の恐怖と羞恥
中村光夫『風俗小説論』エントリ 蛇足
中村光夫 『風俗小説論』 p30-31
この「言いがたき秘密」を胸底に抱いていたとき、彼はおそらく自分自身で意識したよりずっと、西欧の近代小説家の創造の秘密に近づいていたので、フローベールも、ゾラも、バルザックも、己れ自身を人間の形をとり得ぬ怪物と信じたからこそ、作品のなかにつくりだした人間典型を通じて、自我の社会性を恢復することを願ったのです。
(中略)
彼等の孤独は、あとからふりかえって見れば、彼等が真の新しい人間であったという事実の証しなのであり、彼等の創造した人間典型も逆に作者がそこに体現した孤独の深さによって、その生命力を測られるような印象を今日の読者には与えますが、おそらくそれらの作品が書かれたときの事情はこれと逆なので、作家が彼の孤独な観念の子である典型人物を、人生の劇の中で生かしきることは、いわば彼自身の人間たる可能性の自己証明であり、言葉をかえて云えば、孤独な怪物である彼の、人々の群れに伍して生きたいという社会本能の現れであるのです。
表現とは、自己の弱点をさらけ出す行為でもあり、本来的に「怖い!」の一言。
自分はこんなにもコンプレックスに満ちあふれているのだ、と宣言するに等しい。ゆえに、怖くて、恥ずかしい。この恐怖心にも羞恥心にも無自覚に「表現」を連呼したり「表現」を実行してしまえる人がいると、私はたまらず憎々しくなる。*1
服を脱ぐのは恥ずかしいことなのだ。全裸で歩くことは恥ずかしいことなのだ。恥じらいのない脱衣になんの意味があろうか。覚悟のない行為に何の重みがあろうか。と、訴えずにいられなくなる。
しかし、「表現」に対して無自覚な人でも、スタイリッシュに脱いでしまえる人もいるのである。俗に馬鹿と天才は紙一重というが、その天才の方のことである。そういう人には脱帽する*2。そして私は、恥じらいがすべてではないのだと反省することになる。