猫も杓子も

 私が書斎の掃除を万事のこりなく終えて台所と居間の手入れをこちらは手抜きにて仕上げた後にコーシーなど淹れて書斎に戻ってみれば、風を通しておくために開け放していた窓から入り込んだのか黒猫が一匹通販で買ったロッキングチェアの上に座して前足で机の上に開かれていた本のペエジをめくっているではないか。角張って場所ばかり取っては不注意な私の小指の爪をたびたび砕いてきた巨大な机は廊下から書斎へ通じる戸と向かい合わせになっていたので、私と猫君も面と向かい合うこととなった。しかしそこはふてぶてしい猫君であった。一寸、私に注意を向けたふうであったにも関わらず、そんな仕草すらなかったと断じるがごとくペエジに目線を落としているのである。私がゆっくりと近づいて、手に持っていたコーシーカップを机の端に置くと、まァこういった意味深な猫君にはありがちなことなのだが、上目遣いの一瞥をくれた後、流暢な人語で口をきいた。
「貴兄が小生の正体についてなみなみならぬ関心をお持ちであることは十分承知の上である。立ち話もなんであるから、そこに腰掛けるがよい」
 はァ、左様でございますか。私は本棚の上の埃を落とす目的で持ち込んでいた木製の丸い腰掛けを引いてくると猫君と向かい合う位置に腰を落ち着けた。
 猫君はこの上ない上品さで背筋を伸ばしていて某かのマスコットキャラクターのようだったが、その姿勢ではペエジをめくるのがうまくいかないと見える。爪が本の糊の辺りをひっかいて、日に焼けたペエジを傷つけていた。
「よろしければ、めくりましょうか?」
「お心遣いだけ頂戴いたす」
 猫君は矜持を傷つけられたといわんばかりに私を睨め付けると、乱暴な手つきで本を閉じてしまった。それで私は表紙を飾る赤や黄色や青のリボンでたてがみを三つ編みに仕立てられたライオンと目があった。
「『エルマーのぼうけん』じゃありませんか」
 そういえば机の上に広げていたのはこの本だったなと思いながら、私は猫君に話しかけていた。「そのお話を御存知ですか?」
「ふん」
 猫君は前足で髭の手入れをしながら、なにやら得意気であった。
「こちらこそ、貴兄に問いたい。この本の内容を御存知かな?」
「存じております」
「では、この本に出てくる年老いた野良猫のことも知っておろう。何を隠そう、小生がその猫なのである」
「へえ!」
 私は驚いた声を上げたが、言葉を続けることはできなかった。内心では少々滑稽に思ってもいたので、しばらくして揚げ足を取ってみようという悪戯心が勝った。
「エルマー少年はどこの国の人なのでしょう? 無知な私などは存じておりませんが、彼に会ったことのあるあなた様なら御存知なのでしょうね?」
「ふむ、まァ……、それが道理ではあるかもしれぬが……、いかんせん記憶というものは曖昧でな」
「若い頃はさぞかし気鋭ある冒険家だったのでしょうね。異国の言語も自在なのでしょう? 一つご披露願えませんか?」
「言語など、いくつでも操れぬということはないが、さて、どうしたものかな」
 猫君はぶつぶつと呟くとうつむき、黙りこくってしまった。それでもときどき、忌々しいとか、さてどうしたものかと呟くので、私は面白く思って、ことさら嘲ってみたくなった。
「異国の言葉といえば、日本語も、あなた様にとっては異国の言葉でしょう。それがずいぶん流暢で舌を巻いてしまいます。見聞の広きこと海のごとし、といったところでしょうか」
 猫君、顔を上げるとまたふんぞりかえった。
「褒めたところで何も出ぬぞ」
「しかし見たところ、あなた様はそこまで年老いているふうには見えませんが?」
 私は猫君の狼狽える姿を思い描いていたが、あに図らんや、猫君は得意な姿勢を崩さなかった。
「左様。小生、生死を超越した存在であるがゆえ、歳は食わぬのである」
 そして前足を机の上のガラス瓶に置くと、鞠で遊ぶようにこね回して中の白い錠剤をジャラジャラといわせた。私は、ははあ、なるほどなあ、まァそんなところだろう、と得心したが、まだ何一つ気づいていないふうを装った。
「小生、常に死していて、常に生きておる。世の理を悟った聖人のようであるし、誕生したばかりの赤子のようでもある」
「あなた様はへなそうるを御存知でしょう?」
 私が唐突に大きな声を出したので猫君は驚いて目を丸くした。
「なんぞ? やぶからぼうに」
「エルマー少年にりゅうの存在を教えたあなた様ですから、りゅうのことには相当詳しいとお見受けいたします。それでしたら、『森のへなそうる』のこともよく御存知でしょう? 私はへなそうるの正体がきにかかって、最近では夜も眠れず、息苦しいぐらいなのです。もしあれの正体が分かったら、もうこの世に未練なんてないのですが」
 案の定、猫君は耳をぴくりとさせてこの話に食いついてきた。
「うむ、知っておるぞ。へなそうる、な。そういうりゅうも、おったような……」
「何色をしていましたか?」
「ふうむ、何色かといえば、何色でもあったような……」
「本当はご存じないのでしょう?」
「なにぶん、記憶がな……」
「へなそうるは、てつたくんとみつやくんが出逢ったきょうりゅうのことです。橙と黄の斑模様をした四足歩行の生き物です」
「小生、そんな珍妙な生き物は知らぬ」
「あれ、ご存じなかったのですか。では、先ほどの言は嘘ですか?」
「知らぬといったら、知らぬ。無知の知という言葉があろう。あとは察するがよい」
「ご存じないということは、私の望みを叶えられないということ。あなた様に用事はありませんので、お帰り頂くしかありませんね」
「待たれよ。小生の知識があればへなそうるとやらの正体を言い当ててやれるかもしれぬ。話すがよい」
 流石に、素直に帰ってくれそうになかったので、私は猫君をとことんはぐらかしてやろうと思った。
「へなそうるについて分かっていることといえば、たがもから生まれたということだけです」
「たがも、とな?」
「御存知ですか?」
「知らぬ」
「それではお帰り頂くしかありません」
「ならぬ」
「それから、へなそうるは臆病な性格をしていて――」
 私は一計を思いつく。「おぱまじゃくしを怖がります」
「おぱまじゃくし、とな?」
「御存知ですか?」
「知らぬ」
「子供でも知っているものを、あなた様はご存じないのですか?」
「なに、子供でもしっておる、とな? しかし小生、生まれてこの方、死してこの方、おぱまじゃくしなどという奇っ怪な名前は聞いたことがない」
「おぱまじゃくしは、まんまるで、生まれたときは尻尾が生えているだけなのです。ところが日が経つに連れ手足が生えます。最後には尻尾がなくなってしまいます」
「そんな珍妙な生き物、物の怪の類に違いあるまい」
「いいえ、実在する生き物です。お望みとあれば、今すぐに引き合わせることもできます。庭におりますからね、案内しますよ」
「よかろう」
 猫君はひょいと机の上に飛び移ると私の足下へ滑らかに降り立った。こちらです、と私はいって、庭先へ案内した。昨日、近所の子供が捕獲して、一匹おすそわけしてくれたものが庭先の蛇口脇にあるポリバケツの中を泳いでいた。
「貴兄よ、これはオタマジャクシではないかね?」
「てつたくんとみつたくんとへなそうるは、おぱまじゃくしと呼ぶのです」
「非常に遺憾である」
 猫君は髭を撫でた。
 私はその場に腰を下ろした。
 草刈りは明日にしようと思っていた庭はみすぼらしく、これを整えてやれなかったなら、それも未練だろうなと私は思った。迎えというのは、早すぎるのが常だ。
 不意に水しぶきが私の頬にかかった。猫君がバケツの水を叩いたところだった。しまった、という顔をしていた。バケツの中ではオタマジャクシが白い腹を空に向けて浮いていた。
「つい、つい、猫の本能が出てしもうたわ。かような白い玉を見せられては、捕らずにいくわけにもいくまい」
 水面で揺れている白い腹からぼんやりと遊離する、やはり白い塊であった魂を、猫君はぺろりと平らげると私を一瞥し、残像の消えゆくように大気の中に染み込んでいった。
 私は安堵の息をつくと立ち上がり、書斎へ引き返すと、心臓の病に処方された薬剤を嚥下し、ロッキングチェアにだらしなく身を預け、猫舌の私には丁度都合のよい程度に冷めたコーシーを味わった。
 何もかも幻だったような気もしたが、立ち上がってみると椅子に猫の毛が残っていたことに気づいた。それで私は『死神は円形脱毛症になるのか?』という題名で小説を書こうと思い立った。