俺の赤い星

 
 面白い漫画やアニメって、美味しそうな食事シーンが多いよね、と彼はいった。僕の脳裏には「モニュ、モニュ」と肉を食べるグラップラーの姿や骨付きの肉にかぶりつくジブリスターズの面々がよぎる。彼もその辺りを語るだろうと思って、相づちを打ちながら話しを促す。彼はまずドラえもんを例に出した。大長編で、日本誕生で、カブを作るだろう。パッカリと開いて、中からカレーライスやカツ丼、なんでも出てくる。カブは器と蓋、つまりパッケージの役割を果たしているんだけど、カブとして食べることもできて、のび太は平気な顔で生のカブに食らいつく。子供の頃、あれがたまらなく好きで、たまらなかったなあ。
 たまらなく好きで、たまらなかったという冗長な繰り返しが素敵で、僕は微笑んだ。バカにしてるのか、と彼は少し不機嫌な様子を見せたが、話の先を促すともとの調子で語り出した。カイジって、知ってるだろう? カイジが地下労働施設に囚われの身になったとき、缶ビールを恵んでもらって、数ページかけてそれを飲むじゃないか、あそこは本当にいいよな。そうだね、下戸の僕でもビールを飲みたくなるくらいにいいよ、と僕は合いの手を入れた。彼は、お前は分かっていると言いたげに大仰に頷いてみせた。そう、そのあと、カイジは、地上へ出るために蓄えていた金をビールの誘惑に負けて使ってしまうだろう、あそこでのポテチと焼き鳥、あれもまたうまそうでたまらんだろう、俺はポテチと焼き鳥を買いに走った。別に、なんということのないポテチと焼き鳥だった。コンビニで売ってるやつだ。だが、あの一回だけは、特別うまかったな。不思議と、次からは、普通の、ありふれた、安っぽい、まあこんなもんだろって感じの味しかしなくなったんだがな。
 僕も同じ体験をしたよ、と僕はいった。105円で買ったチリポテトが嘘のように僕を喜ばせたことを覚えている(あわせて飲んだのはアルコールではなく缶コーヒーだった)。彼は、しかし、僕の言葉を単なる同意としてとらず、僕が話しを始める前ふりだと解釈したようで、目で促してくる。僕は一瞬、目を泳がせる。さっき思い浮かんだバキやパズーの顔はまったく頭をよぎらず、古くさい色彩のアニメーションが、瞬きをする瞼の裏を訪れた。
 日本昔話ってアニメ、やってたろう。僕はあれではじめてミョウガを知ったんだ。なんでも、ミョウガは、ものを忘れさせる効果があるということで、宿を経営しているけちな婆さんは客が金品を部屋に忘れるようにとミョウガ鍋を振る舞うんだよ。結局、旅人が忘れたのは宿泊費を払うことだったというオチでね。それはそうとミョウガ鍋が僕には美味しそうに思えて、ミョウガというのはどんなものかと思っていたんだけど、実際に口にしたのはひややっこの上にのっていたときで、子供の舌にはあわなかった。今じゃ大好きだけどね、ミョウガ
 彼は、いまいち共感できなさそうに、上辺だけの相づちを打っていた。僕は昔話からまた食べ物の話しを思いついて、続けた。三枚のお札もいいね、最後におしょうさんが鬼を騙して豆に化けさせるだろう、そしてそれを餅にくるんで食べるんだ。それがたいそううまそうに思えてさ。絶対、うまいはずないんだよ、だって鬼だろ、身体洗ってないんだよ、汗で塩っ辛かったんじゃないかな、それに、かじられた時点で変化が解けてもとの姿に戻ってしまうじゃないかと僕はハラハラさせられたんだ。でもおしょうさんはおいしかったという。僕のイメージだと、元が鬼だから、化けた豆も大きな豆ということで、空豆なんだ、そんなの、やっぱり、特別美味しいことはないと思うんだ、でも今でも美味しそうにしか思い出せない。
 俺にはよく分からん、と彼は今度は言葉にした。興奮した僕のことが手に負えないといったふうに愛想笑いを浮かべている。
 山盛りのご飯のことしか、分からん、と彼はいった。昔話の白米の盛り方は山の形そのものだ。僕はふっと思った。漫画やアニメの食事が美味しそうなシーンも、山盛りの白米も、魅力は同じところにあるのじゃないか。僕たちはあんなにたくさん食べることはできない(特に僕の胃袋は小さい)。だから、次から次へ食べて、幸せそうにしている顔が、一種の憧れになる。僕だって、ゴローちゃんのように幸せな顔をしてみたいと思う。でも、ミョウガや豆をくるんだ餅の魅力は別のところにある。イメージの喚起力がまったく違っている。おしょうさんの口の中では柔らかな餅に歯が食い込み、最後に豆のコリッとした歯ごたえに行き当たる。この食感、それから、日本昔話というアニメの薄汚れたようなイメージが、生々しい食のイメージを強く引き出す。
 肉にかぶりつく様は絵になる。悟空がヤジロベーの焼いた魚を骨だけにしてしまって、まんまる膨らんだ腹を空に向けて地に倒れ、あー食った食った、とうめく姿は本当に絵になる。でも、たとえば、とろろや納豆を食べるシーンで同じように魅せる漫画やアニメはない。それらの本質は漫画やアニメのようなデフォルメに耐えられない。とろろは鼻水のようなもの、納豆は単にねばねばしたものにしかなれない。小学生向けのギャグマンガにしか出られない。
 僕は、今朝、ぶっかけうどんを食べてきたんだ、と僕は彼にいった。彼がふんと頷いた。それがね、すごく美味しかった。まずはじめに、うどんが見えなくなるほどの量で表を覆う納豆があって、これが糸を引いていて、小さな泡を立てていて、それがうどんの麺にまとわりついて一緒に持ち上がってくるんだ。見た目は現実離れした一種異様な光景かもしれない。実体のないおどろおどろしい化け物のよう。ところが口に含めばすぐ現実的な味覚に襲われる。単体の納豆はもっと粘っこいし、味は基本的に付属のタレに左右されるものなのに、やけにさらさらしているし、どうじに舌と喉を小気味よくぬめるし、なにより味が別物なんだ、ご飯に載せたときともまるで違って、塩気が信じられないくらいきいてるんだ。納豆って、こんなにうまくなれただろうか、これは本当に納豆だろうか、ってね、思わされる。とろろ汁も、大根おろしも、天かすも、全部脇役に回って納豆を持ち上げる。口の中は宇宙になるよ、認識不可能という意味での、フロンティアとしての宇宙になる。塩気の満たす空間で納豆や天かすの物質的な衝突があるのに、そういった形あるものの方が抽象的になって、塩気ばかりが具体的になっていく。天地の法則が違ってしまう。ところが中盤戦も過ぎた頃に、主役が紛れもなくうどんだったことに気づく。もう納豆なんかじゃ覆い隠せないんだ、白くてぶっといあいつが、素朴で地味で淡泊そうなあいつが、主人公を張るんだよ。宇宙史に刻まれた功績の全てをかっさらって優雅に踊る。誰も敵わないよ、具体的な空間も抽象的な空間もあいつの縄張りになってしまう。あれだけ艶やかで、歯ごたえもあるんだから。しつこくなりそうな納豆の味が清められる。納豆は頭が上がらなくなる。ぶっかけられたつゆがきいてくる。納豆の美味もそのつゆに依存するところが大きかったから、それがうどんに味方することで、いっそう立場が狭くなる。仕組まれた下克上なんだ。もう、すべて、あまさずうどんのうねりに呑まれて喉の奥へ消えていく。
 彼は半ば以上呆れていた。僕がうどんの話を、なぜ、急にしはじめたのか、さっぱり分からないでいるし、実際、それを口に出しもする。僕は笑って誤魔化す。いやね、そういう深い味わいを語る漫画はなかなかないという話をしたくてね、と適当に繕う。内心では脈絡がなかったことを謝っておく。
 話題は些細なきっかけで食から離れる。うどんの話は続けられなくなったが、僕の内側で語りは続く。
 うどんを九割方食べ終わったところで、残り一割は考えながら食べるようにするんだ、仲間からはぐれてしまった納豆の粒を救済してやらないといけないし、そうなると口の中は塩っ辛くなりすぎるから、清めのためにうどんをある程度残しておかないといけない。残っているとろろ汁をうまくからめとってしまうためにも。そこで僕は椀の底にうめぼしを見付ける。いつも不思議なんだけど、はじめは天辺にあったこれが、最後は一番そこに沈んでいる。宇宙の太陽になるのはこのボクだったはずなのに、とばかりしょげかえっているように見える。
 僕は結局、梅干しを食べたのだったろうか、よく思い出せない。転がり落ちるように変わる話題について行こうとすると頭の隅で続いていた語りも濁りの中へ消えていった。