とりとめなく。ねがい。

 家族と団らんを交えて夕食の席に着いた後、試しに買ってきた缶コーヒーを飲む。ダイドードリンコ株式会社のデミタスコーヒーを美味しくいただけて気が安らぐ。王様はロバの耳でお馴染みの王様の名前がデミタス王だったかデミダス王だったか忘れたが、そこからとったのだろうか、と思いながら電子辞書を引くと件の王様のことは載っていなかったが、デミタスというと食後に用いる小型コーヒーカップあるいはそれに注いだ濃いコーヒーとあった。そうか、そうか、それは知らなかった、それでこの缶はこんなに小さいのか、けちけちせず増量してくれと思ったのは間違いだった。たくさん欲しいなら二つ買えばいい。ケチなのは僕の方だった。
 
 安らいだ気分。あらゆる責務から解き放たれたような。
 世間の日曜日はもうお終いなのだろう。サザエさんのエンディングを聞きながら、ちょっぴり寂しい気分になる頃か。夜勤の僕は今から日曜日がはじまる。普段ならば世間様の寂しさに引きずられ、休日の頭から憂鬱になり、常に休み明けの月曜日の圧迫を感じてしまうのだが、今日は、今は、なんと安らかな気分だろう。
 ああ、安らか。
 躊躇わず同じ言葉を使い回そう。世間様よ、安らかに眠れ。……や、これは意味が違ってくる……。
 
 さて。今日はいいものの、またブルーマンデーを先取りしたような安息日を迎えないとも限らない。僕をそんな気分にさせないためにも、日本社会は週ごとの休日を一つ多く国民に提供すべきである。
 週休二日制という言葉がある。いや、あった。しかしこれはまったくもっておかしな導入をされた。まだ小学生だった僕でもおかしいと思った。午前中で授業を切り上げていた土曜日が休日に変わったことで平日の授業時間が増えた。なんという本末転倒。放課後という時間の価値と休日という時間の価値を天秤にかけた結果ならばまだいいが、どうもそうした計算はなかったようだ。大人になって、社会に出ると、なおのことひどい。カレンダーの日付の色は黒も赤も関係なくなって灰色の一色に見える。休日出勤という悪魔の罠が僕を色盲にするらしい。世界は色彩を欠いて、人生はやせ細ってしまう。

 最近、つかれた、つかれた、もうたくさん、もうたくさん、と繰り返される悲鳴を見た。何から何までよくないように考えてしまうこの人を叩くわけにはいかない。
 改善するにしても、革命するにしても、気力が必要になる。これは、気力を養う時間が必要と言い換えてもいい。汚れて曇って辺りが灰色にしか見えなくなったレンズを洗浄する時間抜きでは、どうにもならない。
 果てのない閉塞感、何もかもが悪いという印象、もう嫌だもうやめたいと嘆く心。近づけば引きずり込まれてしまいそうなこの灰色を、一つ一つ塗りかえていくのは大変な作業だろう。しかしことは案外、簡単だったりする。マイナス1をかけるだけで万事良くなる。
 ただ、そのマイナス1のかけ算は、個人ではどうにもならない大きなものにお願いするしかない。
 週に一度でいい。
 休みを一日増やすのは、駄目か?
 なら、残業を廃止するのは、駄目か?
 駄目か。なら、定時きっかりにタイムカードを押して速やかに退社できる日を一日くれまいか?
 本当に、些細なことなのである。マイナス1というのは、本当に些細なことだ。
 くれたって、いいじゃないの。
 
 僕の太った先輩は、腰を痛めてしまったので、退職を要求したが通らなかった。(以来、力仕事は僕が代行している)
 朝は午前六時から、夜は午後八時までお勤めで、土曜日も休日出勤に引っ張り出されるから、病院へ通う時間はない。
 そうこうしているうちに今度は糖尿病にかかった。
 会社の態度は同じ。
 そりゃあ、休みが欲しいと真っ向から主張できない先輩の性格の問題もあるけれど、そこにつけこむやり口を養護することに繋がる論法はどれも等しく価値がない。
 
 僕は、もう、すっかり、正直に生きないことが正しい行いだと思うようになっている。
 網目を抜けて美味しい思いをしたいということではない。
 たとえ怒られようと手を抜いて、たとえ罵られようともズル休みをする。周りが、あいつはあいうやつなんだと諦めるまで、それを続ける。他に戦い方が思いつかないので、ずいぶんと子供じみた発想になるが、それができたらヒーローだ。実際には、そんなこともできやしない。うまいサボりかたなんて、学校では習わなかったし、これまでよい子ちゃんで生きてきた僕は、働かなければ良心の呵責に苦しむ病にかかっている。ときどき、仕事にやりがいなんか見付けてしまった日には、ひやっとする。それでも無理に抗おうとすると、ああ、なんてことだろう、糖尿病の先輩には苦しい思いをさせておいて、僕だけ休む? 僕だけ? と、いうことになる。
 
 でも、もう、こんな独白は、この辺りで閉じておくとしよう。
 続ければ続けるほど時間が削られてしまう。せっかくの安らかな休日に、こんなことは考えたくない。気力の回復を図る方が先だ。
 目を逸らして、逸らして、逸らして……
 
 
 
 あ、そうだ。
 ロバの耳の人はミダス王だ、思い出した。