虫の囁く夜

 家を出る時刻も、会社を出る時刻も、空は闇に包まれている。常に曇って灰色の印象を抱かせる冬は今年の私を訪れてはくれない。稀に会社の窓から見る外の風景は澄んだ青空に満たされて、どこか暖かそうに映る。本当はきっと、寒いのだろう、それは暖房の行き届かない階段を下りるときの肌寒さを思えば予想がつく。しかし実感はない。ただ寒いだけでは冬の寒さにはほど遠い。
 日の昇る遅さ、日の沈む早さ以前に空は雲で覆われ光を奪う。どんよりとした泥のそこで日々をどうにか生きながらえる冬のナマズ
 だが時に空は晴れ、大きな月が張り付いている様を見付ける。額に汗を浮かべながら見る悪夢のごとく真実味のない月の大きさは、月が丸ければ丸いほど、かえって厚みを奪ってしまい、薄っぺらの紙を連想させる。西洋人が宇宙を認め惑星を知っていた頃、東洋人は夜空という名の天井を月という名の虫が這うのだと信じていた。私もまたそれを信じそうになる。月は秒刻みで肥大化し続ける。きっと空を覆い尽くすだろう。兎が住むなど迷信だ。あそこには悪魔が棲んでいる。いいや、何か棲んでいるとすれば妄想を促す姿なき虫で、どこに棲んでいるかと言えば私の頭をおいて他にない。
 健康診断があって、私は去年の今頃よりも二・五キロ軽くなったことを知る。月の接近は怖くはない。この世から夜が消え、人々の神経が休まらぬ時代がやってくるその前に、私は零になって消えてしまうだろうから。