折に触れては読み返す、『文章教室』

 昨日は土曜日だというのに仕事があって朝の四時に起きて六時から働きはじめ、ひとりきりで二つの機械を動かし、定時で帰宅する楽しみを雨上がりの空に見上げたのだが、帰宅途中に今週の疲れが汗と共にじんわりと滲み出て、ガソリン代と車の安全点検と車検までの点検の安全パック加入に伴う思いもよらぬ出費に見舞われたことで――ガソリン代3000円、定期点検パック<車検セットプラン チャオ3S>68880円、エアクリーナーエレメントおよびエンジンのフィルター交換代7140円(エンジンオイルの交換料金は先のパックに含まれる)――いっそう精神を摩耗させたので、通勤を支える愛車の安全性が保証されるまでの時間を読書で過ごすこともままならないであろう、恐らくはすぐに眠気を催して活字を追えなくなるであろうから、と思っていたところ、一般の読者を突き放すようにわざわざややこしく書いたのではないかと常々考えさせられる金井美恵子の『文章教室』をすらすらと読めて実に安らかで開放的な気分に浸れたのは、かの作家の小説には画期的だとか目新しいという意味での物語らしい物語などどこにも見あたらず、ただ描写が並ぶのみであったがため私が何の気兼ねもなく読み進められたからであって――というのはつまりハリウッド的活劇ものやミステリーのごとき謎解きの類はかの作家の言葉を借りるなら《重い物語》であり私としては些細であれ先を気にして読まねばならず、そのように隠蔽された情報があることや物語を大きく動かすための隠蔽された情報のために文章が引きつけられて全く不自由な思いをしている様が精神の過負荷となってけしからんということであり、それに比して戯曲的なお約束もの、もっと日常会話的に言えば吉本新喜劇のような物語は要らぬストレスを負わずにいられ、ただ純粋に描写の技巧と精緻ばかりが浮き上がる言葉の遊戯に浸れる、これはなんと有意義な時間だろうかということでもある――、けっしてHondaがアイスコーヒーを用意してくれたからではない。
 
 
 というわけで、今回は、金井美恵子の『文章教室』です。同じ作家で『岸辺のない海』をいつかレビューしてみたいと思いながらも通しで読んだことは一度しかなく、『柔らかい土をふんで、』は読んでいる最中であり(眠たくなって読み進まない……)、仕方がないので繰り返し読み返している『文章教室』をば、と思い立ち、というよりは車の点検の待ち時間に読んで少し思うところがあったので書いてみようと思い、実際、書いてみたわけです。
 それがなぜ私などの昨日の出来事を綴りながら語られているのかと申しますと、作家(作家になろうと志す者、あるいは自称しさえすれば今日からでも作家であるし、何かものを書いたことがあるのであればカレンダーの過去の日付を指で示し自分はこの日より作家だったのであると呟くのもよしとする者、もしなんならば日々書くことを戦いと称するダイアラーを含む)が批評をすると言うことは新たな作品を創作すると言うことと同義であるからでありますが、それはそうとHondaと書いた直後(無論、実際にはキーボードを《打った直後》であることは言うに及ばず書くに及ばぬといったところではありますが)Yondaと読み間違えてしまい、Yondaといえば新潮文庫の応募マークを送って《Yonda?トランプ》をもらったことが思い出され――だいぶ調子がずれてきたのでこのあたりでやめておきましょう。
 
 

文章教室 (河出文庫―文芸コレクション)
金井 美恵子
河出書房新社
売り上げランキング: 71744
おすすめ度の平均: 4.0
4 意地悪
3 賢くて意地悪な本
3 鼻持ちならなくて面白くて
5 辛らつなユーモア
 
 
 『文章教室』は主婦である佐藤絵真を中心とした(しかし本当に彼女が中心だろうか)恋愛模様を描いた長編小説でして(主婦の恋愛ですから、当然、浮気ものになりますね)、デパートの文化講座の綿密な案内によって彼女が「文学教室」なる講座へ通い、ものを書くことを学ぶのが題名の由来*1ですが、表現のノウハウを懇切丁寧に解説してくれる指南書ではなく純粋に文学作品である点をまずはじめに注意しておきます。しかしよくあるような新人賞狙いの小説指南書よりずっと得るものがあるでしょうし、もっと実用的で分析的な指南書でもって学んだ人がそれらを卒業して実戦の場へ赴こうというのなら大いに参考になります。即刻、自信を失って平和な日常へ回れ右をすることでしょう。
 この小説の特筆すべき点は、《……》によって、すなわち尖った二重の鉤括弧によって、雑誌、単行本その他からの引用がなされている(しかし必ずしも引用とは限らない)ことで、要するに他人の言葉で物語るのです。更には作中の人物である佐藤絵真が書いたものは〈……〉によって引用されています。たとえば尊大な物言いで作品を斬る批評家の文章を引用することでその陳腐さを暴いたり、カルチャースクールに通って自分史なんてものを書きたがる主婦の用いそうな紋切り型の文体や紋切り型にならぬよう注意してひねり出したつもりの文体や稚拙な自己分析を並べて素人めいた書き方を嘲ったり、そのような素人めいた書き方を自分は有効に配置できる、要は使いようだとばかり見せつけたりするわけです。
 その方法の一つとして、作中に登場する現役作家とその愛人のユイちゃんのやりとりでは、彼女が手当たり次第に文章を声に出して読み、最後に《だってさ》と付け加える場面があります。これは、本当、堪りませんね、やられたら困るという意味で。その場面を短いながら引用したところで、早々ながらこのレビューを締めくくりたいと思います。
 
 

《この作品は、血族とは、家庭とは、兄弟姉妹や親子のつながりとは何か、という問題を終始、粘り強く追求している》ですってさ、なに、これ? 《だがそれは、ここでは血族や家庭の閉じた領土の彼方に空間を切り拓き、私たちを誘い出す》ですって、なによ、これ? 《限りなくみずからを単純に変えようとする意志こそが、論じられなければならない。そのベクトルとは、外へ脱出すること》ですってさ。《外》に出かけてみる? 退屈しない?
 いい加減に声を出して読むの、やめてくれないかな。
 いいじゃないの。あたしは声を出して読むと、よく分かるんですもん。

   金井美恵子『文章教室』 p191-192より
 
 
 このあとも「《引用》ですってよ」攻撃は続く。そして現役作家は、人はなぜこれほどに希薄な文章を書き続けることができるのかと悩んでしまう。
 
 

おまけ

 《いっそう精神を摩耗させたので、通勤を支える愛車の安全性が保証されるまでの時間を読書で過ごすこともままならないであろう》ですって、なによ、これ? 《そのように隠蔽された情報があることや物語を大きく動かすための隠蔽された情報のために文章が引きつけられて全く不自由な思いをしている様が精神の過負荷となってけしからんということであり》ですってよ、なに、これ? 《けしからん》のは読みにくいこの文章のことと違うかしら? 《それに比して戯曲的なお約束もの、もっと日常会話的に言えば吉本新喜劇のような物語は要らぬストレスを負わずにいられ》ですってさ、なにこれ? 《吉本新喜劇》って《日常会話的》であることの代名詞になるのかしら? 《これはなんと有意義な時間だろうかということでもある》ですって、なに、これ? 暇つぶしの間違いと違う? 《作家になろうと志す者、あるいは自称しさえすれば今日からでも作家であるし、何かものを書いたことがあるのであればカレンダーの過去の日付を指で示し自分はこの日より作家だったのであると呟くのもよしとする者》ですって、なに、これ? 《恋愛模様を描いた長編小説でして(主婦の恋愛ですから、当然、浮気ものになりますね)》ですって、なに、これ? 主婦の恋愛だと、当然浮気ものになるかしら、限らないでしょうにねえ? 《最後に〈だってさ〉と付け加える場面があります。これは、本当、堪りませんね、やられたら困るという意味で。》ですって、なにかしら、これ? だったら、やらなければいいし、やられても平気なものを書けばいいのにねえ?

*1:と書いて、表面的な由来ではないかとふと思った。文章のうまい私があんたら凡百の書き手にうまい例を示してやるわといいたげな題名というのが内実かも。