土曜日は去りゆく
今週のはじまりは雨だった。夜勤から日勤に切り替わったばかりで体内時計は狂っていた。前日の昼寝がきいていて睡眠時間は肉体にとって十分量だったのだろうが、時計の歪みを修正できるか否かには無関係で、遅延に遅延を極めた大便の訪問が短針の迷子を教えてくれた。日中はあまりにいつものように過ぎ去ったのでもはや記憶に残っていないし、断片あるいはそれよりも更に細やかな残滓を集めようという気にもならない。ただ、出勤の午前五時、つぶてのような雨と、それを裏切る太陽が僕を迎えてくれたことは覚えている。無造作にちぎった紙のような形の白と灰色の雲は一カ所に大きな隙間を残していた。そこからは黄金の空が見えた。眩しくない黄金。羽虫を寄せ付ける街灯のようなエセがあふれかえる世間の遥か頭上で、これぞ真理の光とばかり謙虚に世界を映し出していた。雨がボンネットを叩く音の向こうで空は出し惜しみなく神々しかった。夕方にはすでに晴れていて、夕日とまだ明るくて青い空が美しかったような気がするが、曖昧な記憶なので火曜日のことだったかもしれない。その月曜日だか火曜日だか分からない日に、僕はこのことをブログに書こうと思っていたが、その意欲はうやむやになった。
水曜日、依然として便の訪問は遅れていた。彼は午後三時にやってきて、僕がいくら居留守を決め込んでも執拗にドアを叩いた。しかし僕は一方で彼の訪問を待ち望んでいたし、そちらが本音だと知ってもいた。同僚に留守を預け、僕は闘いの地に赴いた。ところが、である。彼はどこにもみあたらなかった。彼は必ず来る。僕はそれを信じるより他なかった。いつもの白い戦場で僕は待った。彼が来なければ苦しみは続く一方なのだ。この世には斬って捨てなければならないものがいくつもある。それが悪とは限らないが、その行為は運命が問いかけてくる真摯な義務ではある。彼は――やつはというべきか――宮本武蔵を気取って戦場に現れた。手始めに浅く斬り結ぶこととなったが、それがやつのすべてでないことは僕の慧眼が読んでいた。しかしはじまりはいつもこのようなものだ。小技の応酬。それが僕とやつのサガなのだ。戦いの最中、僕は母親の話してくれたことを思い出す瞬間を持った。肛門の小さすぎた母は手術によってそれを克服したのだという。ならばその血を引き、手術を施されていない僕はどうなるのか*1。我が兄弟姉妹たちは同じ苦しみを負っていないように思われるが、確認したことはない。出口の狭さがもたらすものとは、一本の長いやつを細かな団子として分割する必要があるということだ。しかし勢いがつけば話は変わってくる。やつは小技から急に変化し、深く踏み込んできた。望むところである。これこそが本来あるべき決闘の形なのだ。僕の腹は激突の瞬間に引き締まり、その後、そのうちに充実していた気ごと弛緩した。腹の奥は空っぽになった、と某かの感覚が伝えてくる。しかしこれを鵜呑みにするなど愚の骨頂である。次の瞬間にやつは起きあがるのだ。来た、と私は心で叫ぶ。すでに額には汗が結実していた。決着は一瞬であった。やつは地に伏せた。解放が身を包んだ。再び某かが空洞の存在を伝えた。無意識が私を捉えた。偉大なるフードファイターの台詞が頭をよぎった。そこには確かに宇宙があった。果たして、僕は油断をしていたのであろうか? 否、宇宙に身を漂わせるこの状態こそが武において有り難がられている自然体に相違なかった。やつは再び立ち上がり、おもむろに斬りかかってきたが、僕は盤石にこれを処理した。無であったはずの空間から更にひり出されるものとはなにであろうか。世界はどこから来て、どこへ行くのであろうか。現代科学では無すなわち絶対真空において素粒子が突然発生する現象が観測されている*2。ドルトンの法則を否定するこの事実から我々は何を読み取るべきであろう。無から有が生まれてしまうからには、そのような無はもはや無ではないのである。あるいは無など概念としてしか存在し得ないのかもしれない。「0」は、けだし発明品であったといえよう。
やつもまた無にして有、有にして無の存在であり、明日にはまた僕を訪れるはずだった。しかし僕は裏切られた。やつはやってこなかった。更に翌日となって、またも午後三時に訪問してきた。それが昨日のことである。
そして今日、一週間が終わろうとするその日の朝、やつは朝食後に訪ねてきた。余裕のあった私は彼と握手を交わし、充実したはじまりを迎えたのだった。
※※※
ということがいいたいのではなくて、
なんだったっけか、
明日仕事でウゼー、会社マジ死ねとかいいたかったわけで、
なんでこんなもの書いてんの、ワケワカメ。
このまんまだと来週は土日も出勤で休日皆無だよね盆休みもないかもしれないね、て愚痴を連ねる予定だったわけで。
もうストライキでしょ、これ。でもストライキしない。できない。ええ、ええ、どうせケツのあなの小さい男ですよ。