バタイユでバタンキュー

 自分が世界でもっとも倒錯した人間ではないと知りながらも、自分以上の変態に出逢いなおかつその強度に圧倒されたとき、我々はなぜかくも敗北を覚えるのか。自分など変態と呼べるレベルではなかったのだという事実をなぜ祝福できずに、負けた、と唇をかみしめるのか。




 バタイユの『マダム・エドワルダ』と『目玉の話』を読み終わった。
 エミリー・ブロンテの『嵐が丘』が好きな私は、この本に驚嘆した同志の作品を読んでみたくなり、同志の一人であるバタイユに白羽の矢を立てた。直接的なきっかけは http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2007/09/185_99eb.html で紹介されていたからだ。どうにも尻にまつわるエロい小説らしい、と軽い気持ちで読み始めたから、さあ大変。予想の斜め上をゆく展開に困惑させられっぱなしだった。糞尿と精液の異臭が絶えず漂っている読み物だった。
 バタイユ、あんた、性の気配の欠片もないところが異質さをあおってすらいる『嵐が丘』のどこに感銘を受けたんだ……。それを語っている『文学と悪』も読まなくちゃいけなくなった。


 話を戻しまして。
 『マダム・エドワルダ』
 読み始めて真っ先に驚いたのは三点リード「……」を数行使って間をとるところ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。自分に酔ってる中学生が無自覚にやらかしそうな間の置き方に先行きの不安を感じた。*1
 で、躊躇なく姦通を始める。姦通があったという事実が重要というのではないので姦通小説ですらない。性交そのものを書くことが目的となっているかのような露骨な描写はポルノ小説並*2
 普通、文学なら情交の場面はそれとなく臭わすだけに留めるのが習わしだ*3。まさにその場面を書くということは(腕がなければ)下品になりがちで、悪戯に全体の雰囲気を崩したり安っぽくしてしまったりする。そこをバタイユはストレートに書いてしまう。ストレートすぎて心理描写などなく、ただただ外的な行為だけが浮き彫りになって、行為が生み出す関係など微塵も感じさせず*4、行為に至らせる欲望だけがある。それは確かにそこにあるのに、水をかければ消えてしまう炎のように実体がなく、そんな幻のようなものの周囲を「私」はふわふわと漂っていて、読み手の私が目眩を覚える。
 前知識も何もなく一読したわけだが、よく分からない短編だった。




 まあ、それはいいんだ、そんなのは。
 問題は『目玉の話』の方だ。
 「私」と「シモーヌ」の変態ぶりに目玉がスポポーンと飛び出しそうになった。 

 ( Д )  °°   (゚д゚;

 二人は変態的な結びつきを持っていたが、はじめのうちは直接の関係をもたなかったというところが、変態のセオリーというかなんというか(結合しちゃったら、そこから先は何をしてもある意味ノーマル。変態とは常に結合していないところにあるものである)。
 互いにおしっこをかけあったりとか。
 尻の穴に指を突っ込んだりとか。
 キャッキャウフフとはとても表現しがたいイチャつきかたをする。
 《シモーヌは自分の尻で玉子を割るという奇妙な遊びに熱中し始め》たりもする。
 そういった変態行為が母親に見つかってしまってもお構いなし。
 乱交パーティーはする。
 まさに道徳の破壊の限りを尽くす展開の連続。
 さあ、健全な読者はこれをどうすべきだろう。その答えは他の健全な読者に委ねるとして、ともかく、私はなにくそ負けるものかこの程度と鼻息荒く、「この小説はそういう小説」とピントを修正して読み進めた。変態ないしは変態的行為を楽しむ最大の方法はその内側に思い切って飛び込むことだ。*5
 おかげで、次の一幕――精神病院へいれられた「マルセル」へ会いに行くくだり――にはついていけた。だがこの一幕には私を退けるに十分な真理の提唱が一つあった。

 ほかの人びとにとって、宇宙はまともなものなのでしょう。まともな人にはまともに見える、なぜなら、そういう人びとの目は去勢されているからです。だから人びとは淫らなものを恐れるのです。雄鶏の叫びを聴いても、星の散る空を見ても、なにひとつ不安など覚えない。要するに、味もそっけもない快楽でないかぎり、彼らは「肉の快楽」を味わうことができないのです。
 しかし、そうだとするならば、疑いの余地はありません。私は「肉の快楽」と呼ばれるものが好きではないのです。だって、味もそっけもないのですから。私が好むのは、人びとが「汚らわしい」と思うものです。私は人とは反対に、普通の放蕩ではぜんぜん満足できません。なぜなら、普通の放蕩は放蕩せいぜいを汚すだけで、いずれにせよ、真に純粋な気高い本質は、無傷のまま残されるからです。私が知る放蕩とは、私の肉体と思考を汚すだけでなく、放蕩を前にして私が思い描くすべてを汚し、とりわけ、星の散る宇宙を汚すものなのです……。


   ――目玉の話

 本を閉じれば日常の感覚に戻って、普通の人として振る舞える、そのような保険をかけた跳躍では変態の谷へ飛び込んだことにはならないと制された気分だ。
 真の変態は帰る場所など持たない。退路を断って躍進するのみ。
 この力強い真理を確認した後、物語はいっそう取り返しのつかない展開を迎える。外的な行動しか描かれず心理描写などないため私はおいてけぼりをくった。
 予想の斜め上を捻れて跳んでいった物語は、途中でぷっつんと途切れ、夢から覚めたように、目玉の話への冷静な分析を語り始める。私は息も絶え絶えにこの岸へどうにかたどり着き、ほっと息をついた。その安堵がかえってこの作品の凄みを理解させた。







 あとがきにはいつも感謝させられる。
 一読しただけでは分からなかった作品の魅力に触れることができるからだ。少なくとも、この本を持ち上げている人たちがこの本を通してどのような精神の高ぶりを見せたのかが容易に想像できるようになる。

 ここまで変態されちゃあ、あとはソフィスティケートするしか手がない。
 しかしこの小説を読んでも膝を屈しないような変態が日本にいるのだとしたら……、読んでみたいなあ、その人が書く小説。立ち上がれ、全国の作家志望の変態諸君!

*1:ドグラマグラ』だと違和感がない。あれも狂ってる。

*2:長いことポルノ小説読んでないからなんともいえんけど。

*3:まあ、そんなのはもうとっくに普通ではなくなって過去の遺物となり果てている気もするが。

*4:実際、行きずりだから関係なんてないし。恋愛関係も愛人関係も関係ない。金も取らないから売り手と客の関係もない。

*5:それ自体は、私は健全な行いだと信じている。汚れている場所へ敢えて飛び込むことは精神を成長させる。