君を助手席に乗せたいな。

 タイトルは電波。実際には「最近の創作に関するエントリを読んで思ったこと」が適切。
 最近読んだエントリから思いついたことを。
 とりとめなく、つれづれなるままに。
 すなわち、読んだエントリの内容とは関係のないことであっても、思いついた限りは書いてしまう。

カヴァー

 音楽には原曲に対してカヴァーという行為がある。文学にはそれがない。パクリが基本の文学にとって、カヴァーというのはある意味、悪手なのかも。パクリ方がヘタすぎるというわけ。
 とはいっても、翻訳は、ある意味カヴァー。
 それならば同言語でも翻訳的活動=カヴァーがあってもよさそうなものだが、それがしがたいところに文学の本質がある。すなわち内容と文体*1が表裏一体の密接な関係を築き上げているという本質があるため、「○○ver」が作りにくい。そのため文学的カヴァーというものは、同じような本質を投影する目論見を持ちながらも内容と文体は原作と別のものを用いるため、見かけは別物になるし、本質もまた往々にして別物になりやすい。別物にならなかった場合は、改悪、劣化コピーと見なされやすい。同等の強度を持っていたとしても低い評価を受けるだろうし、あるいは人々の記憶から忘れ去られやすいといういっそう辛辣な結果に終わってしまう。また原作の強度を上回った場合は、対比的に語られることはあっても、やはり別の作品として認められるような気がするし、原作越えをしたという事実が一般には膾炙されず内輪の評価に留まってしまいそうな気もする*2。(平岡昇平の『野火』はスタンダール的心理小説を超えたかもしれないが氏の名がスタンダールに拮抗しているわけではない、という程度のニュアンスで……。)
 それにしても、文学にはカヴァーとかリメイクという言葉はどうにもそぐわないのだなあ。パクリとくるとしっくりくるのは私だけ? 文学という語の中にいつも「焼き直し」の意味を見出してしまう。


 「もしもあの未完の大作がオープンソースに移行したら」 - 安寿土牢 - ファック文芸部というエントリがある。完結した大作はなぜ同じような評価をされないのだろう。未完ゆえに明らかな欠損があり、この欠損を埋めるところに行為の妥当性・正当性が自然と産まれるのだとすれば、完結した作品は他者の手による改竄を拒む雰囲気が纏われているということになる。権威という衣で身を守っている。
 いやしかし、文芸ってそもそもオープンソースじゃないか、ああそうか、だからパクリの場であってカヴァーの場ではないのか。*3

フリーシェアワールド

 フリーシェアワールドという考え方があって、これは、みんなで設定を共有しようだとか、随時設定を新設していこうだとか、設定間での矛盾はむしろ大歓迎だとか、一本道の物語に対立するかたちで説明できる(文芸が基本オープンソースだといったって、一つの作品や作品世界への参加が開けているわけではないのだ。そこへカウンターするかたち)。『ゆらぎの神話』では様々な設定が語られ、それぞれの設定の関係性を読み解くことで共有される世界に分け入っていく楽しみが得られる。

 フリーシェアワールドのように誰でも参加可能であり続けるということは常に隙間があるということだ。もっと端的にいえば、終わりを持っていてはいけない。しかしそれではどこにカタルシスが配置されるのだろう。個人的には不思議なダンジョン系のゲームは最後は飽きてしまう。終わりがないから、飽きて、いつしか手を付けなくなるという、ぐだぐだな終わり方しかないことになる。そこが弱いのかな、と。
 主人公を二人から選べ、次回のプレイに影響を与えるザッピングシステムなる分岐もある『バイオハザード2』を何周もやりこめたのも、物語が結びを迎えるからだ。物語は一本道なのだが大小様々な差異を持つ幅のある道なのだ。同じ空間、同じ時間を異なる視点からサバイバルする表と裏のシステムも斬新。反復されるプレイの中には、再現ではなく再演がある。それら様々な差異のために同一の結末が飽きないカタルシスを導く。
 て、なんでゲームの話になっているんだ。

断片テキスト

 フリーシェアワールドの概念を提唱しているErlkonigさんがエントリで次のように述べている。

たとえばRPGとかで。あるアイテムや技やキャラクターにカーソルを合わせると、解説として短いフレーバーテキストが読める。そういう断片テキストを適当な関係で大量に読ませて、集合的イメージを想起させる。そうやって何かを表現するのってまさに文芸だと思うんですが、それが文芸と呼ばれることはあまりないようです。
私たちの文芸には、システマーがいない - 魔王14歳の幸福な電波

 《断片テキストを適当な関係で大量に読ませて、集合的イメージを想起させる》ものとして私が真っ先に思い浮かべたのはある種のゲームやMTG*4だった。ゲーム的なものばかり思い浮かんだので文芸とは違うという印象がある。断片的テキストを読み解くことは楽しいが、それのみがメインにやってくる作品は、なかなか想像できない。RPGであればメインにストーリーがあるからこそそれに誘われる形でテキストを読み解いていくことができるし、MTGならばフレイバーテキストという名が示す通り雰囲気(フレイバー)がでればよいのでメインの味付けとしての裏方役となる。メインありきで生きるのが断片的テキスト。
 断片的テキストがメインにやってくるとして、縦横無尽のつながりを持ったフィールドでそれを読み解いていこうとするとき、読者には「どこから読もうか?」と考える。とりあえず一本道になっている文芸(というか文学とか一般の小説とか)は受動的でいられるが断片的テキストの集合群を読もうとすると能動性が要求される。「次はどのテキストに跳ぶか?」は「次はどの選択肢を選ぶか」「どこにカーソルをあわせるか」の判断を要求し、自然とゲーム的になる。そのまま自然な思考を進めると、フリーシナリオのノベルゲームが思いつくが、こうなるとゲーム性とは切っても切り離せず、文芸性とのズレを感じる。といって、完全に齟齬を来しているわけではないので、このゲーム性と文芸性の重複部分にアンパン(文芸がだめならアンパンでもいいですよ - 魔王14歳の幸福な電波)があるのかな、というのが現時点での私の見解。

ふさわしい技術が存在しなかったから「神話の時代のやり方」は廃れてしまったのであって、その表現形式としての面白さ・豊穣さが、そのものとして劣っていたわけでは決してないと思うのです。

 とりあえず現状では本媒体の強度が高く、神話時代のやりかたは当時から経験値が上がらないままで格差があるので、回帰する際に大いに変形してもらわないと太刀打ちできず実証不可能。RPGのラスボスの形態変化みたくパワーアップが望まれるところ*5
 なんかワクワクしてきますね。

一つの長い何か

あやふやなで壊れやすい人の記憶に依らず、大量の情報を確実に保存する方法の主役は長らく「本」だったから、「本」という形式に最適化するためのいちばん便利な方式、一直線な読み方/書き方が定着したと。
文芸の進化より解体が見たい - 魔王14歳の幸福な電波

 ツッコミ大歓迎とあるので、保守的な立場からちょいと言及します。ズレたこといってたらゴメンナサイ。

 物語が一本道であることには過去多くの前例作家が挑んできた歴史がある。
 もちろん、本という技術・媒体までも疑うところには至っていないが、文芸作家にとって本の外というのは現実のことであり、現実との融合や関係性の向上、対立といったものはメタフィクションという形式で相対している。しかもメタフィクションは近代小説の祖『ドン・キホーテ』ですでに用いられている*6
 記憶があやふや、壊れやすいというところはむしろ小説が積極的に利用してきた。信用ならない語り手はその代表例*7
 時間の流れや章立ての秩序を無視したはちゃめちゃな作品なら『トリストラム・シャンディ』がある*8
 物語が一直線でなければならないとは誰もいっていないので、歴代の書き手達はテキストを断片的にしたり時間移動を入り組ませたり、そもそも物語なんて不要とばかり斬って捨てたりもしているが、それを一つの作品としてまとまった形にすると「一つの長い何か」にはなって、本という技術・媒体とはあえて対立する理由もなかったのだろう。
 だから、本という技術・媒体に縛られてばかりいたわけでもないと思う。
(やっぱりズレたこといってますね、ネットのような新しい技術で新しい読ませ方を模索しようという論点なのでモニョモニョ……)

批評

ネットでの文芸が、単純に一番確実に盛り上がるのは、ネットで書かれてるそんなにおもしろくもない創作に対して、ちゃんとした本格的なそれっぽい批評をきちんと色々な人に対してやってくれるお釈迦様のような人の大登場でしょう。
マイ・ビジョン応答せよ! - ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ

 すごく同意した。
 たとえばファック文芸部を見渡したとき、なんとも自慰的で内輪的に思えたのも、批評がないからだ。批評がなければめいめいでただ喋っているだけ。やりたい、やりたい、やろう、やろう、やってみた、じゃあ満足、という流れがあるだけで、作り手の存在は分かるが読み手の存在が見えてこない。どんな読み手を想定したのか分からない。
 extrameganeさんがいろいろ考えているようだけど、やっぱり読み手がどこにいるのか分からない。どう作るかと考えるのは楽しいけれど、どう読まれるかに繋がらなければ意味がない。私はどこに座ればいいんですか、何番の座席が空いていますか、ステアリングのついているシートにつけばよろしいんですか。それとも、事前に創作者でなければ読み始めるための席なんて空いていないのか。読んでみたときに「あ、面白そう、参加したい」と思わせる要素がどこにあるのかがまだ見えない。

*1:専門的にいえば物語内容と物語言説

*2:と、思う。歯切れ悪いことしかいえない。

*3:引用先のエントリでは、その作品が作られた過程までもオープンであるべきという観点でオープンソースと述べているので、単にパクリOKとは意味が異なるのだが。

*4:マジック・ザ・ギャザリングトレーディングカードゲームの一種

*5:で、私にはフリーシナリオのライトノベルゲーム程度しか思いつかず回帰失敗、形態変化失敗であえなく勇者に撃墜されるヘボ魔王。多分、成功例はもっと別の何か。

*6:作品の後半に『ドン・キホーテ』の前半が書籍化されたものが出てきてキホーテとサンチョはそこに書かれている矛盾点に言及する。読まれるということを意識した際の当然の結果。

*7:金沢美恵子の『岸辺のない海』は読み進むほどに「僕」がどんな人物なのか分からなくなっていく。異化どころじゃない。物語性もなし。

*8:読んだことないけど。