私が山を好きなのは

あっれえ? 一般的じゃないのかな?

 登山が好きというと驚かれる。そりゃあうちの会社の社員が一般的な感性の持ち主かといえばそういうわけでもないので、これを一般論とするわけにはいかないのだけど、でもそんな、ねえ、「登山の一体なにが面白いの?」て顔をされるとこちらとしてはもう話す気なんて失せてしまう。好きなことに理由なんてないという場合がほとんどだけど、登山なんかはその最たるものだ。少年がサッカーを好きであることに誰も「なぜ?」と思わない。「少年よ、君はなぜサッカーを好きなのだね?」だなんて訊いたって、その質問は社交辞令的で、なんというか、中身のない問いだ(何かとんでもない真実が明らかになると期待して問うているのではなく、問うという行為、すなわちコミュニケーションとしての表れに過ぎずそこに議題などない)。
 登山の楽しみが分からないってのは、いいよ、別に構わない。でも、「へえ、俺には分からないけど、そうか、登山が好きなのか、いいねえ」といってくれるような人がいないことがとても不思議だ。「えっ!? 登山? えっと、それ、何がいいの? 全然わからん」という反応一辺倒で驚く。(でもやはり彼らの反応は一般のそれとは違うのだろうな。給与を貯金せずすっからかんにしてしまう人たちだもの。違うと思いたい。しかし12〜14時間も会社に拘束されていると社員以外に話し相手がいないもので、社会人になってから吹聴し始めた趣味に対する一般の反応などうかがい知ることができない。)
 実は私の名前には「岳」という文字がある。母が山を好きだからこれを用いたそうな。そうと知らなかった保育所時代のボクちゃんは胸を張って「竹のように背が高くなるようにつけてもらった!」といっていた。――何が言いたかったのだったか。脱線してしまった。名前からして山が好きであって何が悪い、といいたげな私、とでもこじつけておこう。
 ところで、去年の秋に紅葉狩りにいったときなどは「紅葉みにいったんスか、いいですねえ」なんて高卒社員はいってくれたりしたものだけど。同じ彼に登山のことを話してみると、「山になんか登ってなにか楽しいんですか? 登山のなにがいいか分からんです」とくる。私が夏の山が一番いいというと首をかしげてこういう。「紅葉で山に登るのなら分かるんですけど」 いやいや、あんた、登山わからんゆうておいて紅葉なら理解できるって、そりゃあないんじゃない? それって単なるイメージだ。紅葉になんて興味がないくせに、紅葉を見に行く行為が一般的ゆえに彼にはその本質が理解できずとも紅葉を観賞に出かけるという選択は理解できるというわけだ。同じく彼にはその本質が知れないようなこと(登山)であっても耳に馴染みのない趣味であれば「? 何が面白いんです?」となるわけだ。
 や、いいんだけどね。別に愚痴をいいたいわけではない。ただ、緑の中に飛び込もうとした瞬間に首根っこを捕まれてぐいと引き戻され、え、ちょっと何が面白いんですか、といわれちゃ当惑してしまう。語ろうとしていた感動はおあずけをくらって、彼らがついてこれるように石段を積み上げなければならない。会話している時間や私自身の話術に難があるため、感動を縷々語る前に会話は終わりを迎える。(だって仕方がないじゃん、彼らにとって興味がないと知ってしまうとこちらから感動を長々と語れないじゃん、そういうのをされるとうざいと思ってしまう私は、石段を積み上げても、設計の甘いその階段の上でふらふらとしている彼らを見ると、もういいやって思ってしまう)

しかし山なんて。登山なんて。

 だが、そうだ、登山なんて本当に何が楽しいんだ? いっちゃなんだけど、登山、本当は趣味じゃない。年に四回も登るだろうかという私が「趣味は登山です」といってしまうのは、「ええい、てめえら、俺の趣味が読書だっていくらいってもピンとこないような顔するから、てめらのくいつきやすいアウトドアな話にあわせてやるよ」というスタンスゆえにすぎない。
 かといって嫌いでもない。
 とりあえず登山が好きですといってみると彼らは必ずこういう。もう不思議なくらいにこういう。「じゃあ富士山に登ったことはありますか?」ないよ。「いつか登りたいと思っているんでしょう」
 不っ思議ぃー。
 私には登山が好きということから富士山に登りたいという願望が連想できないのだが。しかしなるほど、母を見ると、いろいろな山に登りたいらしい。木曽駒、空木岳、他色々、出かけている。富士山に登りたいという話は聞いたことがないが、日本アルプスには興味があるのだ。そうすると、なるほど、私は登山が好きというのでもないらしい。

だがちょっとマウンテン

 だが!
 あの夏の日差しを緑の下で感じるときの心の躍動!
 緑の印象をがんがん投げつけられるかのごとき(脳の限界が)開けていく快感!
 あれが好きだということと、あれを味わうための絶好の場所が山なのだとしたら、私が夏の山が好きでそこを登ることが好きといっても嘘にはなるまい。それどころかまったき真実だ。
 それはなにも登山でなくても味わえる。朝の日差しの中、山道を車で駆け上がるとき、道路の両脇の緑が夏の陽光を照り返し色彩豊かに輝くとき、私はほうっと息をつく。青い空と白い雲、そして緑、それぞれの色彩が子供向けのアニメのようにどぎつく分かれて脳髄に突き刺さる。それを十分に堪能しようとすると、やはり山には入らなければならない。だから、そこかしこの山に出かけなければならないというわけではない。これを感じられればそれでいいと思っているのだから。出不精の性格も相まって、私が登りたい山はいつだって一つ。金剛山だけだ。

ああしかし貧弱な登山経験

 母は春の山が好きという。同僚は秋の山なら理解できるという。私は夏の山こそ登りたいと思っている。
 しかし実際に私が登った山は雪の積もっている冬山ばかり。前に登ったのは一月の金剛山、その前は四月*1、更に前は二月の高野山。とても登山が趣味ですとはいえないていたらくだ*2。とにかく私が結果的に登っているのは冬山。雪なんて嫌いなのに、いざ登ってみると夏以上に語りかけてくるものがある。雪も陽光も木も風も声を持つ。

最後に、登山のおもむき

 何を語りたいのか分からない内容になってしまったが、最後に私がなぜ登山を好いているのかに言及する。
 私は運動音痴で、真っ直ぐに歩くことすら怪しいくらいで、仕事では様々な不注意を働く。それらに由来するストレスが募ると自分への不信に変わる。自分の身体一つ満足に操れないで人生を楽しめるだろうか? 登山だけがこれを解消してくれる。
 階段など設置されていない山道を登るとき、街中を歩くのとは違った注意を払わなければならない。足を滑らせれば大怪我必至の(ロープを結わえられた)岩場を通過するときなどは特に神経を使う。いくら人の足が踏み固めている経路とはいえ、人が歩くために用意された道ではないので、私などは、中途半端な段差を前に右足を差し出すべきか左足をあげるべきか逡巡させられるていたらくだ。目が様々な情報を習得し、両足は全体の重心を考えながら平坦ではない道を踏む。そうやって怪我もしないで無事に登り切ると、金剛山であればスタンプなど押してもらえて、明確なゴール、分かりやすい達成の印を受けられる。肉体を操作しきり、ミッションをこなしきった快感。これが登山という運動そのもののおもむき(他にも運動に由来しない楽しみ――風景を楽しむとか――がある)。自分のどんくささを否定できる珍しい瞬間に立ち会える。




 ところで金剛山の山頂付近の広場には、登山の回数がなかなかの数に達した人の名前が掲げられている。会社に行く前に山に登りにくる人もいる。山を登ってから出勤というわけだ。また、一年のほとんど毎日、金剛山に登山に来る老夫妻もいる。この老夫妻が金剛山に登らない日というのは、台風の日だとか、他の山に登に行く日だけだそうだ(一年に360回金剛山に登るのだと母から聞いた)。
 そういう人たちを見ていると、私はやっぱり、「登山が好きならば富士山にも登りたい」という感性がちょっと分からないなと思う。ただ登り続けること。それだけなんだ、きっと。




 前回ははじめて階段ルートから下山。その中間地点にはウルトラマンとバルタン星人。なんじゃこりゃ。

*1:もちろん去年の四月

*2:今勤めている会社を辞めたらもっと頻繁に山に通うでしょう。