おお神よ、彼を救いたまえ

 神さまや、過剰な労働というリングからおろしておくれ。読書もできやしないだなんてのは、そいつは、なしだぜ。


 いつから読んでいるのだろうか、『存在の耐えられない軽さ』を。『アブサロム、アブサロム!』が出だしの美麗さに比するとあまりに冗長で、味読するにはあまりに経験に依存しすぎているがゆえ言葉が僕を離れていくことに参ってしまって(すなわち理解の及ばない言葉達に苛立ったものだから)、『フランドルへの道』と同様に挫折の一ページに刻まれたその次に手を出したのがクンデラの著したその本だった。
 まだ読み終わっていないだなんて。八十二ページを残すのみとなった今のところ、トマーシュがテレザかプラトン的神話のどちらを選ぶべきか考える場面を読んだばかりだ。
 《どちらを選ぶべきなのか? 籠に入れられているのが見つかった女性だろうか、それともプラトンの神話の女性だろうか?》
 男が女を求めるのはもともとの自分の半身を求めてのことなのだとするプラトンの神話がある。そのような理想の女性に対し、テレザは滑稽な六つの偶然が重なって出会うことができた女性にすぎない。自分にはどうしようもない偶然の累積によってたまたま傍にいるテレザを選ぶことはどのようにあがいてみても軽い選択なのだ。ここのところのトマーシュの考え方は実にナイーブだ。この後に続く、テレザの痛みを感じてしまいプラトン的神話(自分の半身という必然・運命の女性)よりも彼女を選ぶだろうとするくだりと彼女に安眠を与えるための導きが素敵で、このナイーブさもよしとされるのだが。
 ナイーブであることは一つの性格であり、ありのまま受け入れればいいのであって恥ずべきことではない、という理屈を、元来ナイーブである私自身への言い訳として先に唱えておきながらいうが、トマーシュったらなんてナイーブなのかしらん。(しかしナイーブってなんだろうという気になってくる。ありもしない運命の半身を本当にあったならどうしようかと真剣に考えることをナイーブとはいわないだろうが、さて。)