シンプルでセンスの良いタグ一覧
タイトルはホッテントリーメーカー由来なので、釣り気味。
副題「インフルエンザで苦しみながら考えたブクマのありがたみと最近直面しているタグの問題」
投げっぱなし(結論なし)の予告はしときます。(すべてはインフルエンザのせい)
ブクマを知らなかったあのころ
はてなのことをはてなのトップでしか知らなかったあのころ、私にとってはてなは人力検索以外に活用の手だてがなかった。
その当時、私はネットで発見した有用な情報はすべてワードパットにコピペして資料フォルダにぶっこんでいたのだ。涙ぐましいまでのローテク。小学生並みの戦術。資料フォルダは多岐にわたる分類名を冠したディレクトリをその腹に構築していった。しかしいかんせんカモノハシが多いのだ、お前はほ乳類なのかは虫類なのか。一個の分類では区切りきれない相対的なもの。それを単一のフォルダに入れるということは後々振り返ることの困難を意味していた。いいや、興味深いことは覚えているもので、振り返ることは手間をかければできたのだが、もっと気軽に、暇つぶしの一環のように閲覧するには問題が多すぎた。
ブクマを知って
なぜブログをやってみようとしたのだったか、今となっては記憶にないし、はてなを選んだわけも思い出せない。はてなでブログが提供されていることをいつ知ったのかも忘却の彼方だ。ひいきにしているネタサイト(朝目新聞)経由で訪れるブログが、異なるデザインを持ちながらもはてなの称号を冠していたこと――(これらの記事はえんとりという区分けを持つぶろぐなるものらしい、ぶろぐなるものは日記といふものではなかったといふのか、そうなのか)という思考――がきっかけだったように思うし、脆弱な記憶力ゆえの回想に伴う捏造であることも否めないのでもある。
とにもかくにも、はてなの傘下に馳せ参じてみると、他に細々としたサービスが豊富にあることを知って、ブクマに辿り着いたのも必然であった。
はじめ、ウェブ上にブックマークを作成することのメリットは軽んじられた。ホットメールのように他のPCからでもアクセスできる利点くらいしか思いつかず、HDがクラッシュするがごとき「やれやれ、人生はロックだぜィ」と呟いてしまうような事態で少しでも役に立ってくれるのが関の山だろうと、浅い考えでいた。
だが、時間と共に理解は深まった。
ブコメを知って
ネット上にある記事をテキストファイルにコピペして保存する方式をとっていたあのころ、私は幾度となくブコメのごとき機能を欲していた。テキストファイルの内容を要約できればいいのに、という思いはしばしば私に溜息をつかせた。
ところがどうだ、ブコメはその思いを実現させているではないか!――が、私がそれに気付くまでずいぶんかかった。ページごとに感想が書けることに舞い上がって、過去にあれほど熱望した機能がここにあると気付かなかったのだ。おばかさん、と自分を責めるのは容易いが、仕方のないことだ。他人の意見や感想、記述のあり方がどのようなものか気になって周囲を見回し、スターをつけてもらっては舞い上がってしまっていたのも、はてな村に馴染むための通過儀礼であったように思う。
タグを知って
ブログとはなんぞや、と当初はまず使いこなそうとするところに始まり、エントリごとにタグをふれることが判明する。ブコメでも同様のことができてブクマの効率が高まると気付く(タグが使えていないブクマーなどブクマーではない、ということにはまだ気付いていなかった)。周りを見てみると誰もがタグを使っている。
さあ、テキストファイルにコピペして資料フォルダに保存していたあの涙ぐましい時代に終止符を打つときがやってきた。もう、「どのフォルダにいれようかしらん」と悩む必要がなくなるのだ。カモノハシは[ほ乳類][は虫類]と二つのタグを付けてやればいいのだ*1。
タグという概念は偉大だった。混沌と秩序の双方が成立しているところがなによりだ。フォルダで整理するような階層的分類は秩序の最たるものだが、一つの情報への接し方は一つではないため破綻する定めにある*2。情報はリゾーム状の系譜を有するのだ。
しかし、困惑す
タグによりすべての情報は同じ地平にあってなお的確に分類されるはずであった。
ところが、そのためには当然ながら適切なタグが設置されねばならない。ずぼらな私はそのことをよく考えていなかったので、今になって困惑している。はじめからタグによる分類法を使いこなせるほど安易なものではないというだけのことかもしれない。誰もが通過する道なのかもしれない。しかし困惑す。
はじめは、そう細々と分類する必要はないかと思っていたので、ずぼらで、ごった煮が大好きな私は[哲学]タグになんでも内包した。「心理学も哲学のうちさー、入れちゃえー。漫画の論考も哲学みたいなもんさー、それ放り込んだ。この体験談は哲学でいいや、混ぜちゃえ混ぜちゃえ。これは社会の仕組みをまとめているな、よきものとはなんぞやと考えるなら哲学さ、バッチコーイ。経済か、マルクスは哲学者さ、オッケーイ」というノリだった。それ自体は間違っていない。哲学タグは現在たったの16の記事を内包するばかりで手に負えないわけではないし、個人的には違和感もない。しかし、他のタグでの同様のスタンスはまずかった。一つ一つのタグの厳密性の薄さが問題だ、というのではない。新しいタグの設置を躊躇ったため、ずぼらな性格が既存のタグへの傾倒を促したのだ。その結果、実際的な問題はまだ何も起きていないにも関わらず、気分が悪くなった(単にインフルエンザのせいかもしれないが)。
困惑の内容をば
新しいタグの立ち上げを躊躇う気持ちは分かってもらえるだろうか。せっかく設置したタグなのに分類されている記事が一つだけだったりすると、「あれ、要らない子?」と寂しくなってしまう。
タグが増えてくると物忘れの激しい人はタグを設置した当時の確かなパッションを失ってしまい、分類に困り始める。私の場合[読み物]タグが困りものだ。記事は一つ。開いてみると、http://itkz.blogspot.com/2008/11/blog-post_7944.htmlがある。なるほど、読み物だ。しかし、今後ここに何が分類されるだろう。読み物的な何かは他のタグをつけられてしまうのではないか。
[とりあえず]タグも泣かせてくれる。タグの有用性に気付いた私は病的な囁きを聞くようになった。「タグをふらぬはブクマーにあらず、あらず、あらず……」 それなら「とりあえず」ブクマということで、いい加減な分類が生じ、このタグはたちまち太っていった。しかしこれはタグで分類したうちに入るだろうか。贅肉とまでいわないが消化不良。不健康。
[知識]タグと[資料]タグと[社会]タグの使い分けも困難。実生活で役立ちそうな情報(転職に関することとか)は知識、雑学として一定の地位を占めているなら資料、社会に関することは社会。これらのタグはそれぞれで重複する範囲を広く持つ。重複はタグの性質上、問題ないのだが、うまく棲み分け出来ていない分類を見るにつけイラッとしてしまう潔癖性の私がいる(ずぼらなくせに!)。[資料]タグの目的は揺るがないのでよいが、後から作られた[社会]タグが先に作られた[知識]タグと重複していることを考えると神経質になる。これは私自身がそのニュアンスの微妙な差異を忘却してしまうことを予感しているがためだ。
問題解決のために
この違和感をどうやって解決しようか。
タグを多くすれば適切に分類できるが、それぞれのタグのニュアンスを忘れてしまうかもしれないし、「要らない子」現象*3が目につくようになる。
タグを少なくすることの有効性は分かるし、できるブロガーはカテゴリーを分けるのがうまい - ネット小説家の小さな書斎で語られていることはいちいちもっともだと思う。しかしそれではやはり分類の不的確さに首をかしげることとなるし、タグの利点を最大限に発揮できているかといえば、そうでもない(我が資料フォルダには八つの大きな区分があるし、その下には無数の小さな区分が存在している。百のタグが必要だ。)。
階層構造を真似るというのはどうか。
我がHDに眠る「資料フォルダ」が「ブクマ」に相当するとして、資料フォルダの直下にくる分類を便宜上「大きなタグ」と呼ぶことにしよう。それより下の階層については「小さなタグ」と呼ぶことにする。大きなタグは特別な括弧をあてるなりすればいい。[【哲学】]が大きな哲学タグで、[哲学]が小さな哲学タグだ。
大きなタグはタグを少なくするという清潔感に貢献し、小さなタグは細々とした分類を肯定してくれる。カモノハシは生物という大きなタグに分類され、ほ乳類およびは虫類といった小さなタグを併用される。
大きなタグを漢字で統一し小さなタグを横文字で統一するのでもいいし。そっちの方がいいか。いいな。
どうだろうか。
私は実行しないけど。ずぼらだから。
個人的解決
投げっぱなしにしたかったわけではない。ものの整理の仕方は結局のところ個人の心のあり方次第だ。ここに尊敬する三木清の言葉を引用する。(誰も読まないエントリを書きながら、それでも読者に語りかけるように書いてしまうことの恥ずかしさを私的な行為によって誤魔化そうとする心理で。あるいは投げっぱなしを誤魔化す意味合いで。)
どのような外的秩序も心の秩序に合致しない限り真の秩序ではない。
――三木清『人生論ノート』秩序について
とりあえず、タグを見直すことから始めます。ああ、平凡。しかし実際に一度挫折してみなければ分からないもの。
要らないタグはさくっと削ってしまうとします。
経験、体験談、増田っぽいなにか、のどれかの名前で新しいタグを設置することにします。
自分向けないしは初心者向けの「シンプルでセンスの良いタグ一覧」は後日作成するとします。
(インフルエンザのせいで思考が緩慢に……)
余談
資料フォルダの更新は途絶えた。
ブクマのおかげだ。
しかし画像フォルダの更新は途絶えることがない。ときどきタグがほしくなる。魚フォルダが肥大化している今日この頃。
ベッドに戻ります。