ある朝の語り

 前の休日、私はどこにいたでしょうか。もちろん覚えています。部屋で小説を書いていました。仕事と執筆に時間を取られ読書をしなくなった私は、休日もまた『存在の耐えられない軽さ』に数ペエジ目を通しただけで読書をやめてしまったのでした。それから、のらやへいったことも覚えています。のらやはうどんを専門にしている外食店で、私が弟(弟たち)ないしは妹を連れていく唯一の店でもあります。美味しいうどんを出してくれるのですが値と量の不一致――往々にして値段の割に少量で驚かされるのです――これには注意しなければなりませんし、うどんのあまりの熱さに猫舌の私がたびたび参ってしまうことも留意しなければなりません。そのような次第で、私は冷えたぶっかけうどんを頼むのが常なのですが、最近の場合ですと天丼を注文しました。ゴボウの天ぷらはその奇跡的な味でいつも私を驚かせます。
 私は先週の土曜日と今週の日曜日を執筆によって潰しましたし、外出もしたという次第です。好きなことをしたし、外にも出た。結構なことです。しかし、今朝、気付いてしまったのです。私は三階建ての家に住んでいながら、ここのところ二階の自室以外に足を運んだ記憶がなかったのです。一階の玄関や廊下、階段、二階に上がってすぐの居間、トイレ、風呂は別です。要するに三階の兄弟の部屋へ上がった記憶がとんとなかったのです。夜勤明けの今朝、多忙な会社に勤めている中で奇跡的に訪れたので(奇跡というよりは数奇な偶然の累積といいたい気がします)、開放的な気分で無人の三階へ足を進めてみました。最新の記憶と様子が違っていました。特に、妹の机の上の本棚は初見でしたし、そこに並ぶ本もまた私が未読の漫画であり、そのようなものが我が家に実在していることが少し信じられませんでした。竹刀を見て、妹が剣道をしていることを思い出し、奇妙な気分になりました。知ってはいたのですが、竹刀を振っている妹の姿はとかく想像できないのでした。漫画(絵だけですが)を描くのが好きなあの指で竹刀を絞り振り下ろす姿は不出来なフィクションのようにちぐはぐとした印象をもたらすのです。
 私はそこで、唐突ながら、本をほとんど読めていない現状にも思いを巡らせました。
 出勤、労働、帰宅、睡眠、そしてまた出勤。三階の部屋を覗く時間的余裕も精神的余裕もない。本来物書きを目指すものにとって欠くべからざる体験(読書)も手に着かない。
 死を思え、という言葉を思い出しました。それはゲームの中に出てくる言葉で、墓石を頼りに死者の数を適切に入力することで宝箱を開くことのできるイベントの文句ですが、私がその言葉を思い出すときはいつもハイデガーの哲学が一緒になって思い出されるのです。墓にはいるとき、私たちは本当に生きた日が少なかったことを知るのです。次に私は栄光の朝という言葉を思いました。モーニング・グローリーは洋楽の題名ですが、ここでもやはり私はまた別の考えを並行して思い出すのです。私の夜明けはいつやってくるのでしょう。その日その日を闇に生きている気がしてなりません。
 栄光の朝はいつやってくるのでしょう。少なくとも今朝ではありませんでした。