唯物論者は魂の実在を信じちゃ駄目なの?

 最近というか数年前から母が霊的なものを支持していてオーラの泉なる番組なんかを見たりしているわけで私は非常に懸念しているのだが、妖精に未来を尋ねる類のカードを三枚引かされるときはまあつきあっているし、これがなかなか想像力を刺激して面白く、誰にでも当てはまるようなカード解説書の文面もまた(詐欺師の手口を知るという意味で)興味深く思っている*1
 ああ違った、私は母と違って霊なるものを信じていないが魂の実在は肉体の外にお出かけしない限り信じていたんだといいたかったのだった。

 「体外に出歩かない限り魂は存在している」という考え方は、過去の私の考え方であって、今はそれほど熱心に同じように思っているわけではない。この考え方を振り返ってみると微笑ましく感じてしまうのは、どう考えても「魂ってやつがあって欲しいなー」という願望が思考の基礎になっていることが見え透いているためだ。だから無理に「体外に出ない限り」と条件を付けてまで信じようとする。
 今はどう思っているかといえば、過去のように気を張って条件を付けたりせずに、「魂? あるでしょう、あっても困らないし」と気負いなく(さも当然に)捉えている*2
 しかし魂が実在するというと、奇異の眼差しで見てきたり、あり得ないと断じてくる人たちが私の周りには溢れている。このとき感じる齟齬があまりにむずがゆいので、この場で呟く次第で。
 先に断っておくと私は唯物論者だ。肉体なしに思考はないし、そうなると霊的な意味での魂なんて存在しないと考えられる。同じ理由で私は幽霊を信じていない。会社の食堂で幽霊の存在をさほど疑わず「幽霊ってのは波長があわないと見えないんだよね」といったやりとりをしている同僚を心の内で「んなアホな」と否定しているくらいだ(だから本当は魂の不在を説かれたことに憤慨できるような人間ではない)。
 それでも魂を信じられるのは、そもそも存在していることが明らかだからであるわけで。
 目に見えないけど、まあ、耳で聞いたり舌で感じたりするのと同じくらいには存在を確かに感じられるわけで。
 それというのも私が魂について考えるときは、紙幣的価値という次元で考えているからだ。
 紙幣は紙切れであり、物質的な価値でいえば硬貨の方がまだ価値がある。紙幣なんて、既に模様が刷られているのだからメモ用紙としても不的確だし、トイレットペーパーやティッシュパーパーとして代用するにも不的確だし、子供に紙飛行機を折ってやろうとするなら広告や折り紙の方がよいときている。紙幣で障子を貼っても、和紙を用いたときの光の透過が得られない。それよりはアルミや銅の方が価値がある。
 しかし、一体誰が紙幣の価値を疑うだろう? 目に見えなくとも紙幣は経済という力を有する。
 なんでか、といえば、人間がそうしたからだ。紙幣的価値は人類の発明品だ。
 そして紙幣的価値と同様の次元において心や魂というものも実在する。ないってことは、ない。あった方が便利だよね、情緒的で、捉えようがあるよね、というスタンス(かは定かではないが)によって人類が発明したものだ。

 魂や心を信じていない人たちは、「意識なんて飾りですよ、偉い人にはそれがわからんのです」というのだけど、それにしては意識に振り回されている。ダイエットしようとする意識に反して肉体という唯物論の代弁者はケーキを口に運ばせる。肉体のやつは意識泣かせだ。泣かせられている連中は、そういった意識と肉体の双方の軋轢を実感しながら、魂の不在を説く。
 いいからそんなことしてないで軋轢を鎮める方法を考えなよ、そうでなきゃ魂の不在に価値なんてないじゃないか、もともと魂があって苦しかったからこそ、魂の不在を説くことで解放されようというのに、まだ苦痛をかみしめているってんなら意味がないじゃないか。私としては、その苦痛こそ魂の触感だ、といいたい。
 ニーチェは神を殺したけれど、魂までは殺しちゃいない。永劫回帰する<私>というのは肉体ではなく魂の問題なんだ。
 人間がアミノ酸の集合体にすぎないからといって、心がなくなるわけではない。むしろ心を形成する力がアミノ酸式の設計図に刻まれている。このように唯物論は紙幣的価値の次元での魂や心の実在を否定することはない。実在している次元が違うのだから当然だ。
 だから、唯物論者でも魂を信じて悪いってこたぁない。

(で、誰が悪いっていったのさ? といわれると、私は顔を赤らめ退散するしかないのであった)

*1:詐欺師でなくても他人を慰める文句は詐欺師的側面を備えていますよきっと。

*2:逆に当然すぎて周知の事実と思いこみ、他人との齟齬の根元となってしまって、困ってしまう。