二次元キャラとの結婚について

日本政府に対し「二次元キャラとの結婚を法的に認めて下さい」という署名活動実施中


 ネタだとしても全力で釣られる!



 個人の自由ってのは大切だ。
 自由は規律に従うことで、かえって効率よく得られるもので、好き勝手にふるまうこととは違う。
 とはいえ、現存の規則や風習を憎み、「自由が足りない!」「もっと自由になりたい!」「俺の全存在を解き放ちたい!」と強く願うこともある。思想に対する自由を思うとき、しばしばそういう強烈な願望を持つ。

 同性での結婚が認められている国を少しうらやみ、認めぬ自国をやや侮蔑する。
 多くの社会が異性での結婚のみを承認している理由も分かる。次世代が誕生しないことには社会は存続できない。自殺的な選択をする社会であっても困る。自己存続、自己防衛、それが生命の原始的な願望であり、社会はその願望の総体として機能するだろう。仮に自殺を肯定するような雰囲気が社会を満たしていたとしても、社会の中枢は自殺を控えるよう訴える役割を果たすだろうし、果たしてもらいたい。
 しかし同時に生命であることを超越しようとするのも人間のサガだ。人間の精神は肉体や技術、制度が追いつくことを待たずして超越に先んじる傾向がある。精神は精神の自由こそがなによりも幸福の根拠となりうると訴える。「子孫が残せないからなんだ、そこに問題があるとすれば、俺と野郎は愛し合っていて、お前達(=社会)がそれを認めないという現実があるってだけだ」
 そういう自由を追い求める思想(=社会的な価値に束縛されない思想)の熱を浴びると、私は同性愛論者でもなんでもないのに、うん、うんと頷いてしまう。「社会ってやつぁイケ好かないよ、強いてくるところがたまらなくイケ好かない。存続のため同性結婚を否認するのは分かるが、だったらそれでいいから、せめて黙認してやるのが筋だろう、それが自由って偉大な概念への敬虔な姿勢じゃないか」と、思わず心で呟いてしまう。



 そういうわけで、繁栄のない結婚もありだと考える。
 だがしかし、二次元キャラとの結婚を認めろって、そいつはなんかおかしい。
 いや、すっげぇおかしい。
 や、可笑しい(笑)


 二次元のキャラという分類の前にそいつは虚構の存在だ。
 ぶっちゃけその魅力は現実にはないからこその魅力だろう。
 仮にその魅力を三次元の世界(=現実の世界)へ完璧に移してしまえる技術が完成したとしても、二次元キャラと結婚したいと考えている人たちはアプローチする機会を見送ってしまうのでは?



 「二次元キャラは二次元世界に属しているからこその魅力があるのであって、三次元世界への完璧なトレースなんてありえない。ゆえに二次元キャラは三次元に出てくる必要性はまったくない」という反論があったとしても、やっぱりおかしい。
 相手の合意が得られるのか、という重大な問題がある。
 この問題の意味は「二次元キャラは喋られない」ということではない。
 「お前なんかに振り向いちゃくれねーよ」ってことだ。
 その問題を少しだけ掘り下げてみる。結婚を所望している側をオタク男性、結婚を所望されている側を二次元美少女と限定して。


 問題1――彼女を狙っているライバルの数
 たった一人しかいないんだよ、彼女は。
 (とはいえ、虚構上の存在だから、複製可能な能力や技術のある世界なのかもしれないが、それでもその中のたった一人に愛情を注ぎたいと思っているのでもなければ「結婚したい」なんて主張はおこがましいので、その場合はパスだ。)
 甲子園で優勝できる高校はたった一校だけ。悲しいけど、こればっかりは現実。


 問題2――彼女は恋愛をするのか
 女性という属性をもっているからといって、恋愛および結婚の意思をもっているだろうか。


 問題3――彼女は恋愛をする
 ストーリー上、結ばれるべき男性がすでにいるかもよ。


 問題4――お前に恋愛ができるのか
 三次元の住人が二次元世界に潜り込む技術ができたとしても、お前に彼女を口説くことができるのか。どうやってお近づきになるつもりか。
 問題1と重複するが、ライバルが多すぎる。
 問題3と重複するが、彼女が結ばれるべき男は彼女と既に出会っている。この差は大きい。



 私だって虚構の女性に恋をする。恥ずかしながら。二次元ではないけど。
 『嵐が丘』のキャサリン・アーンショウとキャサリン・リントンはどちらもおてんばのお嬢様で、素敵。前者は野生児の雰囲気、いつまでも我が儘なところが主人公(ヒースクリフ)をサドの復讐者に変えたし私をマゾの読者に変えた。後者は温かい心を持っていて、彼女を口説き損ねた語り手(ロックウッド)と共に私にひどく惜しい気分をもたらす。
 『パルムの僧院』のクレリアは理性的で敬虔なキリスト教徒なのに熱い恋のために密かに信仰へ逆らう。「愛は罪かしら」と主人公に問うて「愛さぬこそ罪だ」と返され動揺する姿に萌え。
 『ナジャ』のナジャは一般的に見れば精神がいかれている女の子だがイカス。虚構キャラが現実に存在するとはこういうことだ、って感じ。キチガイを愛す勇気はさすがにない。
 『高慢と偏見』のエリザベス・ベネットのように理性への真摯な態度に惹かれる。
 こんな具合だが、彼女らと結婚したいと考えたことはないし、同じ臥所につきたいとも考えたことがない(と、今この瞬間に考えた)。一つの円卓を囲ってお喋りをしてみたいとは思う。虚構の人物が現実にいてくれたらと思うことは、「会いたい」「話してみたい」からであって「結婚したい」からじゃないだろう。



 反論がどこかから聞こえてくる。
「馬鹿いってんじゃねえ、俺は彼女と結婚したいんだ! 彼女とは以心伝心だ! 彼女が二次元世界にいる? 大きな間違いだ。彼女はここ(自分の胸を叩いて)、俺の心の中にいるのさ」
 ……。
 そうか、だからネタにマジレスは御法度なのか、取っ組み合っているつもりなのに、その手応えがまるでないわけだ。
 恋愛できっこないと叫んできたが、ああ、そうか、結婚したいという願望を実現させようとしているということは、すでに恋愛関係にはなっているということだったのか……!



 でも、だったら、なんで世間一般に承認されたいんだろうなー、って思う。
 恋愛の究極の形は結婚である、だなんてまさに世間一般の価値観であって、二次元キャラと恋愛しているようなイレギュラーな価値観を本来外敵であるはずの世間一般に共有を持ちかけるってのは理解しかねる。
 せっかく虚構の人物への愛情を燃やしているのなら、「究極の愛情とはこのように表現されることによって完成する」と叫んで、常人には近づきがたいパフォーマンスをやってみせてもらいたいものだが(「二次元キャラとの結婚を認めてちょー」て今回の行動も常人には近づきがたいパフォーマンスだけどさ)