スピッツ――プラスチックのカバーを外したその後で

 私はスピッツが好き。
 有名な曲のサビを少しだけ知っている程度だった私がはじめてどっぷりと聴いたスピッツ・ソングは『ホタル』だ。
 思春期の胸に染み入る歌だ。
 幻想的で、どこか懐かしく、甘ったるい。
 「時を止めて君の笑顔が胸の砂地に染み込んでいくよ」
 胸のうなじと聞き取っていて意味が分からなかった当時を思い出す。



 BOOK OFFで中古のアルバムを購入し、スピッツの曲はあらかた聴いた。
 『チェリー』
 『渚』
 『楓』
 『冷たい頬』
 『スカーレット』
 『君が思い出になる前に』
 『夢じゃない』
 『裸のままで』
 『空も飛べるはず
 エトセトラ……
 列挙したような有名な曲、キャッチーな曲にはまった。
 「愛してるの響きだけで強くなれる気がしたよ」
 「夢の粒もすぐに弾くような逆上がりの世界を見ていた」
 「君が思い出になる前に も一度笑ってみせて」
 狂おしい気持ちにさせられる歌詞に酔った。



 その一方で、妙な曲の多さに戸惑った。
 そもそもアルバムという概念に私は馴染んでいなかった。単なる数あわせで即興の曲を加えることで、アルバムは完成するのだと思っていたほどだった。
 アルバム『ハチミツ』に収録されている『トンガリ’95』なんかは、その最高峰だった。つまり、なんてナンセンスな曲だろうと思っていた。意味や価値があるのはシングルであって、アルバムは、アニメでいうところの総集編のような間に合わせ感があるものなのだと解釈していた。



 それがどうだ、はじめてトンガリを聴いてから八年経った今、やっとこの歌の評価を改めた。
 これまで再評価する機会すら与えられていなかったわけのわからんこの歌は、通勤途中にCDから流れ、再評価される機会をぶんどった。
 訳の分からない歌詞。でも、そんなのはスピッツにはありふれている。そして、何もかも忘れて、心を開いて、聞き直してみると、不可解なフレーズが、本当はひねったものなどではなく、あまりに素直すぎる直球の言葉だと気付かされる。
 破壊的で、反体制。すなわちロックだ。ロックなフレーズ。スピッツの歌詞の語彙としては頻出の言葉もたくさんあるが、世間一般の歌詞と比較すればそれは非紋切り型だ。
 他方、紋切り型のフレーズも頻出する。しかしスピッツにおいて紋切り型の歌詞は、紋切り型として使われてはいない。



 紋切り型(英語でいえばステレオタイプ)とは、ありふれた、誰でも思いつくタイプのこと。ざっと適当に思いついたまま列挙すると――
 「君だけを愛している」
 「翼広げて」
 「果てしない夢を」
 「答えはない」
 「僕らは生まれてきた意味がある」
 エトセトラ。
 スピッツは(というより作詞をしている草野正宗は)紋切り型を避けた――避けたという意志は草野にはないだろう、我が道を真っ直ぐに進んでいるだけだ――スピッツワードが展開され、また、紋切り型を用いるときも敢えて用いている。紋切り型が持つ安っぽいイメージを利用するために。普通、わざと紋切り型を使ったところでメリットはない。意図的に使ったのだと気付いてもらえなかったり、意図的に使った場合の自意識がウザいからだ。チープでジャンクなフレーズを敢えてエンジョイしてる俺ってカッコイイでしょ? て感じでナルシシズムが臭ってくる。
 ところが不思議なことにスピッツから臭ってくるのは異臭ではない。何臭か知らんけど。スピッツ臭というしかない、いい気分にさせられるニオイ。
 普通の言葉をそのままの形で、普通ではない使い方をする。
 紋切り型で紋切り型を殺す。
 それがスピッツ
 それが草野。



 紋切り型の反対は、非紋切り型と呼ぶしかないのでそう呼ばせてもらう。
 『タイムトラベラー』では時間が戻るという意味を「飛び交う鳩さえ卵の中にかえっていく」と表現する。イメージに富んだ表現は映像を必然と目に浮かばせる。



 『トンガリ’95』の歌詞は紋切り型とはかけ離れている。だが『タイムトラベラー』のようなストーリーのわかりやすさや豊富なイメージともまたかけ離れている。
 他の誰も歌詞に盛り込まないだろう言葉を豊富に抱え、それゆえに「やっぱりワケワカメ(笑)」という感想は八年前と変わらないまま、しかし楽しめる。スピッツ的語彙として頻出の言葉がいっぱいだ。
 「プラスチック」……ゴミの代表格。下らなくて、役に立たなくて、氾濫している感じ。しかしスピッツの歌詞の概念はいつだってゴミ=宝石。人生は無駄、しかしそこに否定的な意味はない。
 「青い猫目のビーム」……猫はスピッツを象徴する生き物といえるとして、猫目って、なんだ。かわいらしさとサイケが融合したイメージか。そんでもってビームとか。この歌詞は、考えるのではなく感じるしかないし、考えたら負けっていうか、間違いなんだろうな。
 「死ぬほど寂しくて」……これは紋切り型。「死ぬほど○○」って小学生の文法じゃん。それがスンゲー切なく響いてくるから紋切り型にして紋切り型を超えている。
 「散らかった世界」……やや紋切り型かもしれないが、内容は極めてロック。「散らかった世界は少しずつ乾いてく」という具合で、乾いていくというレトリックがきいているので紋切り型ではないのが本当。
 「サイボーグ」……多彩なイメージが浮かぶが、おおもとは代替可能ってイメージか。私が死んでも代わりはいるもの、みたいな。ゴミであり、大量生産可能であり、代替可能、んでもって、なんだかすぐに錆びつきそうで、バッテリー切れも起こしそうな頼りなさ。
 「尖っている」……何が尖ってるのかなぁ、精神なのかなぁ、それとも肉体的な一部分であり性的な意味なのかなぁ、考えても答えは出ない。すくなくとも「突き刺すよう」であり「磨かれた」何からしい。
 YouTubeあたりで聴いてみて欲しい。青い猫目のサイボーグ的な何かが魔法陣グルグルっぽい奇っ怪な動きでサイケデリックな光を放っているようなイメージがする。
 うん、ヘンテコなんだ、一言でいえば。
 で、スピッツというのはヘンテコなんだと長らく抱いてきた感想がいよいよ強固になった今日この頃だ。





 スピッツはその質を成長させた。
 一般的には『チェリー』的な曲を作るグループと思われているが、月日が経つほどにスピッツスピッツになっていった。つまり、ヘンテコに。
 『チェリー』などでスピッツを捉えている人たちは『メモリーズ』が流れてもスピッツの曲だと気付かないかもしれない。
 『けもの道』で「東京の日の出 すごい綺麗だな」と歌い、
 『大宮サンセット』では「大宮サンセット 妙にでかいね」と歌う。
 変な歌詞。
 他じゃお目にかかれない。
 これがスピッツか、これがスピッツの成長か。
 とか思っていたら、今年に入ってはじめて『海とピンク』を聴き、あ、なんだ、ずっとはじめの頃からスピッツスピッツだったんだなと知った。
 でもやっぱり成長はしている。
 成長といっていいのか分からないので、変化とただ呼ぶことにするけど。
 スピッツ的語彙を紋切り型と見なして、やや避けているような感じ。それは紋切り型をやはり敢えて、しかし優しく選択するようであると共にスピッツ的語彙の新たな次元を切り開こうとしている感じ。得体の知れないふわふわとした塊がギラギラとした妖しい光を放つ切れ味のよい剣になっている。ただし、ハリセンボンのような、どこへ向かってるのか分からない、どこへでも、全方位へ向いているような刃。それってもう、剣じゃない。



 変わったのはスピッツだけではない。
 私も変わったわけで。
 スピッツの曲を聴くときに、不意に学生のときにその曲に対して抱いていた感情を思い出すことがある。ああそうか、こんなふうにこの曲を聴いていたな、こんなふうに感じていたのだな、これならしつこいほど繰り返し聞いたのも頷ける、と。「君の耳と鼻の形が愛しい」という歌詞は今でも愛すべき歌詞の一つであるし、『ホタル』は相変わらず鉄板だ。
 しかし、よい曲と思う割にスピーカーから響き出るとき、聞き流してしまう。大好きな『正夢』は、まさにそれ。アルバム『スーベニア』のトラックナンバー5『ナンプラー日和』がくると私は必ず「よっしゃ、次は正夢」と思い、トラックナンバー7『ほのほ』を聴きながら、「あれっ、正夢過ぎてんぞ」と驚く。ヘンテコな方が耳に残ってしまう。
 『君が思い出になる前に』と『冷たい頬』のどちらがベスト・オブ・スピッツかと悩んでいた私はもういない。『海とピンク』や『トンガリ’95』を聴きながら、なんでこんなヘンテコな曲が好きなんだろうとにやにやしながら考えている私がいる。