誤読する人たち
kentultra1さんの「小女子を魚というのが悪質という裁判官とそれを支持する者は、問題が全く見えていない」を読んだ。読み終えた時点で確信めいた予感はしていたが、続けてコメント欄を見たところ、ああ、やっぱりと呟かずにいられなかった。エントリーの内容を誤読している人であふれていた。
コメント欄に対するkentultra1さんのコメントが出てくるまでに八つのコメントがあったが、そのうち七つはエントリー内容を誤解していた。ものみごとにエントリー内容を空振りしているコメントの群。予想通りだった。
予想通りとはいったが、「こういう内容は誤読されがち」という漠然とした予想があっただけで、エントリー内容が分かりにくいということはなかった。
なんでまた、あんな誤読をやらかすのだろう?
(ぶっちゃけ、エントリーをよく読まなかったのだろう)
恐ろしや誤読。
恐ろしや勘違い。
こういうことは誤読する側がすべて悪い。
厳密には「すべて」ではないのだけど、
それは主張や表現をするときに避けられないリスクに過ぎず、
実質的な問題ではない。
それでも、「ああ、やっぱり」と思ってしまったからには、誤読されやすいエントリーにも原因があるのだろう(原因であって、責任ではない)。
例えば、タイトル。
『小女子を魚というのが』云々。これだけで「ああ、あの事件について述べているのだな」と思わされる。事実、そうだし。この時点で既にエントリー内容が想像される。おそらく掲示板などでこの事件を知り、だいたいの意見を把握しているエントリー読者は、内容を予想してしまう。
すなわち、
「アホなイタズラ乙!」
「どんどん取り締まれ。それが社会のため」
あるいは
「表現の自由が失われている、ヤベェ」
「この程度を罰していてはきりがないのでは?」
といった主流となる二通りの内容のことだ。
偏見の種子を撒いてしまっているわけだ(読者が)。
ところが、いざ読んでみると、そこにある主張はこれまでなかったものであって、本来は驚く。しかし偏見の種子を発芽させてしまった読者は新しい内容とは気付かずに、例に挙げた後者と同類の内容と見なしてしまう。
『問題が全く見えていない』という点も誤読を誘発している。
読者に筆者の尊大な態度をイメージさせてしまい、
短慮な読者はすぐに噛み付こうとしてしまい、
文章の読解を上滑りさせてしまう。
以上の二点が誤読を誘発した原因ではないかと思う。
(それ以上に、エントリーの論点をしっかりと見出すために知性――謙虚さと国語能力――が必要だったためというのが大きいのだけれど。「問題が全く見えていない」ことが問題だ、という内容だったので、本当はちょっとヤヤコシイのだ)
繰り返すが、エントリーの筆者に責任はない。
強く訴えないと説得力がないのだから、
尊大だったり、断定的な表現を用いるのは当然だ。
それが表現のリスク。
リスクなしに表現はない。
……だから表現は怖い。
怖いから、そもそも表現をしないってのも、知恵といえば知恵なのだけど、それでは何も変わらないわけで、誤読の可能性は割り切るしかないという部分はある。